リトアニア諸公

ドミートリイ・フョードロヴィチ・ベリスキイ

Дмитрий Федорович Бельский

公 князь
ボヤーリン боярин (1521-)

生:1499
没:1551

父:ベーラヤ公フョードル・イヴァーノヴィチベーラヤ公イヴァン・ヴラディーミロヴィチ
母:アンナ (リャザニ大公ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ

結婚:
  & マリーヤ (イヴァン・アンドレーエヴィチ・チェリャドニン)

子:

生没年分領配偶者生没年その親・肩書きその家系
母親不詳
1イヴァン-1571マルファ1539-ヴァシーリイ・ネモーイシュイスキイ家(リューリコヴィチ)
エヴドキーヤミハイール・ヤーコヴレヴィチ・モローゾフ
アナスタシーヤヴァシーリイ・ミハイロヴィチ・ザハーリイン

ゲディミノヴィチ。正教徒。ロシア貴族。

 母方を通じて、モスクワ大公イヴァン3世大帝の甥、ヴァシーリイ3世の従兄弟にあたる。そのためもあってか、ヴァシーリイ3世から信任を受けた。

 1519年、ミハイール・ザハーリイン(ミハイール・ロマーノフの祖)とともに、ヴァシーリイ3世がカザン・ハーンに据えたシャー=アリを伴ってカザンへ。これを即位させる。
 1521年にはセールプホフ、カシーラで、総督としてクリム・ハーン軍の襲来に備えたが、これを易々と許してしまった。どうやらその後は、軍司令官の座から遠のいたようだ。

 1533年、ヴァシーリイ3世が死去。その死に際してヴァシーリイ3世は、幼い跡継ぎイヴァンの後見人にドミートリイ・フョードロヴィチを指名したとも言われる。ただしこれには異説もあるし、そもそもドミートリイ・フョードロヴィチが幼帝の後見人であったにせよそうでなかったにせよ、政治的な実権は母后エレーナ・グリンスカヤが握った。
 その後の権力闘争には、弟イヴァン・フョードロヴィチの名は出てきても、ドミートリイ・フョードロヴィチの名は出てこない。1551年まで生きながらえたことといい、やはりドミートリイ・フョードロヴィチは後見人ではなかったのかもしれない。

 エレーナ・グリンスカヤの下では、再び軍司令官を務めている。コロームナ、ムーロムなどで、カザン・ハーン国やクリム・ハーン国からの襲来に備えたが、後方ヴラディーミルにも何度かまわされている。
 イヴァン雷帝が権力を握った後もその位置は変わらず、各地で軍司令官を歴任した。時にはカザンなどへの遠征軍も率いているが、軍事的成功は一度も手にしていない。

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最終更新日 02 02 2012

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