アンドレイ・オリゲルドヴィチ
Андрей Ольгердович
プスコーフ公 князь Псковский (1341-48、77-81、93-99)
ポーロツク公 князь Полоцкий (1342-77、81-87、93-99)
生:1325?
没:1399.08.12
父:リトアニア大公アルギルダス (リトアニア大公ゲディミナス)
母:マリーヤ (ヴィテブスク公ヤロスラーフ・ヴァシリコヴィチ)
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 配偶者 | 生没年 | その親・肩書き | その家系 | |
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母親不詳 | |||||||
ニコライ | -1386 | ||||||
セミョーン | -1387 | ||||||
イヴァン | |||||||
? | フョードル | -1399 |
ゲディミノヴィチ。正教徒。リトアニア語ではアンドリウス・アルギルダイティス Andrius Algirdaitis。
アルギルダスの長男。
アンドレイというのはキリスト教徒としての洗礼名だが、かれがいつ洗礼を受けたかはよくわからない。母親が正教徒であったので、あるいは誕生時や幼い時期に洗礼されたとも考えられるが、他方で1341年にプスコーフ公となった際に洗礼を受けたともされている。
いずれにせよ、異教徒としての名前ははっきりしないが、一説にはヴィンゴルダス Vingoldas であったともされる(ジンゴルド Zingold という文献もある)。
1341/42年、父アルギルダスはリヴォニア騎士団と戦うプスコーフ市民を助ける。プスコーフ公であったリトアニア人ダウマンタスの記憶を持ち続けるプスコーフ市民は、アルギルダスにプスコーフ公となるよう要請。アルギルダスは代わりに長男アンドレイ・オリゲルドヴィチをプスコーフ公とする。しかしアンドレイ・オリゲルドヴィチもプスコーフには住まず、ユーリイという代官が支配した(«ヴィトフトヴィチ» という父称が添えられる場合もある。この父称が正しいとすれば、リトアニア人)。
なぜアンドレイ・オリゲルドヴィチがプスコーフに代官を派遣しただけで自ら赴かなかったかは定かではないが、おそらくポーロツク公に就任したためだろうと想像される。
ポーロツク公領は、父の支配するヴィテブスク公領とリトアニア本土との間に位置し、リヴォニアとも接する、戦略上重要な土地である。当時のポーロツク情勢はまったく不明だが、1326年にはヴァイニウスがポーロツク公であり、かれはゲディミナスの弟、すなわちアンドレイの大叔父であったとされる。ヴァイニウスがいつ死んだかはわからないが、1342年にその子リューブコが死んだとされている。ある説は、ヴァイニウスの死後リューブコが1342年までポーロツク公であったとしており、別の説は、ヴァイニウス自身が1342年までポーロツク公であったとしている。いずれにせよ、1342年にアンドレイ・オリゲルドヴィチが後継のポーロツク公となったと考えられる。
1348年、リヴォニア騎士団がリトアニアに侵攻。この戦いでは伯父ナリマンタスが戦死しているが、リヴォニア騎士団はプスコーフ公領にも侵攻した。当時ノーヴゴロドは北方でスウェーデンと戦っており、プスコーフを支援する余裕を持たなかった。プスコーフは何とかリヴォニア騎士団を撃退するが、この戦いでアンドレイ・オリゲルドヴィチの代官ユーリーが戦死。
プスコーフ市民はアンドレイ・オリゲルドヴィチに代官派遣をやめて自らプスコーフに住むよう要求するが、アンドレイ・オリゲルドヴィチはそれを拒否。代官を派遣しようとするがプスコーフがこれを受け入れず、アンドレイ・オリゲルドヴィチとプスコーフ市民は一転して対立関係に入った。
1357年、トヴェーリ大公位を巡る争いで劣勢に立たされていたホルム公フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチ(父アルギルダスの後妻の兄)がリトアニアへ。父の圧力で、トヴェーリ大公位を握っていたカーシン公ヴァシーリイ・ミハイロヴィチは、トヴェーリ大公領の3分の1をフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチに割譲して和解した。
この時アンドレイ・オリゲルドヴィチは、1359年にルジェーフからヴァシーリイ・ミハイロヴィチの代官を追い出し、フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチに渡している。
1362年、父に従いポドーリエで青水の戦いに参加。
1368年と1370年の、父によるモスクワ遠征にも従軍。1373年にも従軍したが、この時は叔父のケーストゥティスとともにペレヤスラーヴリ=ザレスキーを攻めている。
アンドレイ・オリゲルドヴィチは、西にてリヴォニア騎士団とも戦っている。特に1374年からは毎年のようにリヴォニアに侵攻した。
1377年、父が死去。リトアニア大公位は、父の遺志に従い、異母弟ヨガイラが相続した。アンドレイ・オリゲルドヴィチは年長であることから継承権を主張し、モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイ、リヴォニア騎士団と同盟してヨガイラに対抗。これには、同母弟のブリャンスク公ドミートリイ・オリゲルドヴィチが同調したようだが、広範な支持は得られなかった(キリスト教徒だったためか)。
アンドレイ・オリゲルドヴィチはポーロツクを棄てて、プスコーフへ(かれのプスコーフ公位はドミートリイ・ドンスコーイも承認した)。
ドミートリイ・ドンスコーイはリトアニア領ルーシに侵攻。ドミートリイ・オリゲルドヴィチはこれを傍観したが、1379年にドミートリイ・ドンスコーイはモスクワに引き上げた。この時、ドミートリイ・オリゲルドヴィチも分領を棄ててモスクワについて行っている。
ヨガイラは、1379年にドイツ騎士団と、1380年にリヴォニア騎士団と講和して、こうして事実上反ヨガイラ連合は瓦解した。
1380年、ドミートリイ・オリゲルドヴィチとともにクリコーヴォの戦いに従軍。
1381年、ヨガイラは実弟スキルガイラをポーロツクに派遣する(もっとも、スキルガイラがポーロツク公となったのは、アンドレイ・オリゲルドヴィチが逃げ出した1377年のことだとする文献もある)。しかしポーロツク市民はこれに頑強に抵抗した。
ちょうどこの年、ヨガイラとケーストゥティスの間に内戦が勃発。ケーストゥティスがヴィリニュスを占領してヨガイラを捕らると、スキルガイラはリヴォニアに逃亡。ケーストゥティスはポーロツクをアンドレイ・オリゲルドヴィチに返還した。しかし1382年、ケーストゥティスは殺され、その遺児ヴィタウタスとヨガイラとの内戦が続いた。
1384年、ヨガイラとヴィタウタスが講和。これに対してアンドレイ・オリゲルドヴィチは、1385年にリヴォニア騎士団と同盟して対抗した。この同盟では、アンドレイ・オリゲルドヴィチはポーロツク公領をリヴォニア騎士団の封土とし、自らリヴォニア騎士団に臣従したらしい。アンドレイ・オリゲルドヴィチはさらにスモレンスク大公スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチとも同盟。
アンドレイ・オリゲルドヴィチはリトアニア本土に侵攻。これに対して、ワルシャワにいたヨガイラは、スキルガイラとヴィタウタスを派遣した。アンドレイ・オリゲルドヴィチはルコームリで、スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチはムスティスラーヴリで敗北。1387年にはポーロツクも陥落し、アンドレイ・オリゲルドヴィチは捕虜となった。
1393年、プスコーフに逃亡。のち、1392年にリトアニア大公となっていたヴィタウタスと和解。この頃以降のアンドレイ・オリゲルドヴィチについてはよくわからないが、おそらくヴィタウタスと和解したこともあって、プスコーフとポーロツクのふたつの公位に就いていたのではないかと想像される。
ヴォールスクラの戦いで戦死。