ロシア史前史

«ロシアの歴史» と言った場合、おおまかにふたつの意味があると思う。ひとつは地理的概念としての «ロシア» の歴史であり、いまひとつは «ロシア人» の歴史である。
 とりあえずそれぞれについて定義しておくと、地理的概念としての «ロシア» は、いわゆるヨーロッパ・ロシアを指す。ウラル山脈から西側の現ロシア連邦領である。ただし南部、特にカフカーズ山脈の北麓などはヨーロッパ・ロシアには含まれない。やはりヨーロッパ・ロシアの核となるのは、その南半ではなく北半であろう。モスクワからサンクト・ペテルブルグにかけての一帯が、その心臓部にあたる。
 一方民族的概念としての «ロシア人» というのは、実はいまだに当のロシア人自身が明確なアイデンティティを見出せないでいる状況である。とりあえずここでは東スラヴ人の一派で、ロシア語を話し東方正教を信仰するヨーロッパ・ロシアの住人を核とする、というように捉えておこう。

 ロシアの地には、太古より人間が住んでいた。特にその南方ステップ地方やウクライナでは、歴史時代に入ってからもキンメリア人やスキタイ人、サルマティア人などが活動していた。
 インド・ヨーロッパ語族の言語を話す人々の故地がどこであったのかはいまだに決着の見ていない問題であるが、おおよそはウクライナを中心に東は中央アジア、西はドイツにかけての地域に議論は集中している。西はともかくとして、キンメリア人、スキタイ人、サルマティア人の活動範囲にあたる。
 インド・ヨーロッパ語族の言語を話す人々から、スラヴ語族の言語を話す人々(ここではこれをスラヴ人と呼んでおく)が分かれたのがいつ頃かは不明だし、かれらがどこに住んでいたのかも諸説紛々たるありさまである。しかし比較言語学的には、スラヴ語族の言語(これをここではスラヴ語と呼んでおく)とバルト語族の言語とは非常に近しい関係にあり(学者の中にはスラヴ=バルト語族の存在を想定する者もいる)、しかもいずれもウラル語族の言語(特にフィン系の言語)の影響を強く受けていると考えられている。現在のモスクワやさらにその西方も、かつてはウラル語族の言語を話す人々(これをここではウラル系民族と呼んでおく)の居住地であった。
 これらを考えあわせると、おそらくスラヴ人は一時期はベラルーシの辺りに住んでいたのではないかと想像される。

 4世紀になり、いわゆる «ゲルマン民族大移動» によって空白となった地に、スラヴ人が徐々に浸透していく。当時すでに農耕を主としていたと考えられるスラヴ人は、拡散のスピードは必ずしも速くはなかったが、しかし着実であった。こうして4世紀以降、現在のウクライナ、ポーランド、チェコ、スロヴァキア、«東ドイツ»(1949-91)といった地がスラヴ人の居住地となっていく(これらはそれまでは主にゲルマン人の居住地だった)。
 同時に一派がバルカン半島を南下。«ギリシャ人» を駆逐して、バルカン半島をスラヴ人の土地に変えてしまった。現在のセルビア、マケドニア、ブルガリア、スロヴェニア、クロアティア、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロである。現在のギリシャ人もこの時流入してきたスラヴ人の末裔である、と主張する人々もいる。ルーマニア人とアルバニア人だけがスラヴ化に抗しぬいて現在も独自の言語を保持している。

 居住地の拡散は、言語的分化をもたらす。人によれば10世紀頃まではスラヴ語の共通性は保たれていたとも言うが、すでに各地の方言分化が進行していた。大きくは、ポーランド語やチェコ語に代表される西スラヴ、バルカン半島の南スラヴ、そしてロシア語・ウクライナ語・ベラルーシ語の東スラヴである。
 この東スラヴ系の言語を話す人々のことを、ここではルーシと呼んでおこう。

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最終更新日 17 01 2013

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