身近な精霊たち

とりあえずここでは、固有名詞を持つものは «神» として別ページで紹介し、こちらのページでは固有名詞を持たないものを挙げた。実際、通常はこちらは бог (神) とは呼ばれない。せいぜい божество だが、このニュアンスを日本語に訳すのはわたしの手に余る。
 もっとも、固有名詞か普通名詞か区別の難しいものも多いが、便宜的なものなので、独断で分けてある。

 こちらのページで紹介した «存在» は、とりあえずタイトルでは «精霊» という言葉を使っておいたものの、ロシア語でも特定の総称が存在しない。божество 以外にも、«неведомая и нечистая сила (不可思議で不浄の力)»、«вымышленное существо (架空の存在)» など、ずいぶん説明的な言葉が使われる。語学のページではないが、関連する単語をいくつか挙げておこう。
 ドゥーフ дух は精神という意味で、英語でいうスピリットに相当する。当然かつては三位一体を構成する精霊(聖霊)のことであったが、こんにちでは以下の存在の総称として、«この中では» 最も一般的に使われる言葉となっている。
 プリヴィデーニエ привидение は人の姿をした幻を指し、幽霊や心霊写真に写った亡霊のたぐいを指す。ほぼ英語のゴーストに当たると言っていい。
 プリーズラク призрак は幻影という意味で、プリヴィデーニエよりは使用範囲は広いが(「死の影」や「幸せの幻影」等)、一般的にはほぼ同様に使われる。
 フェーヤ фея はフランス語の fée の音訳で、西欧の妖精、特にケルトとゲルマンの妖精を指す(もともとロシアには «妖精» は存在しない)。
 ネージチ нежить は、文字通りには «生きていないもの» の意味で、ゆえに、特に «死後も死んでいないもの» を指す。ヴラディーミル・ダーリによれば、「魂も肉体も持たず生きているもの、人に非ずして人の姿をしているもの」ということになる。具体例として、ドモヴォーイ、ポレヴォーイ、ヴォデャノーイ、レーシイ、ルサールカ、キキーモラなどを挙げている。もっとも、こんにちではこれらを指すのに使われるのはドゥーフであり、ネージチは通常ホラー用語である(アンデッド)。

 これらの存在は、神々とは異なり、«我々の身近» に存在している。神々は全世界に力を及ぼすが、ドモヴォーイは住みついている家の敷地内にしか力を及ぼせない。それだけに、その家に住んでいる人にとってはペルーンやヴォーロスよりも、ドモヴォーイの «ご機嫌を伺う» ことの方が切実な問題であった。そのため、キリスト教化された後も、ロシア人はかれらの存在を信じ続けた。かれらを崇め、かれらを怖れ、かれらとともに生きてきたのである。かれらと神々との違いはまさにこの点にある。
 さらに上述のように、かれらは固有名詞を持たない。ペルーンはルーシに(全世界に)たったひとり、唯一無二の存在だが、レーシイは無数に、すべての森にそれぞれのレーシイが存在する。

 ブィリーナや民話は、こんにちではほとんどのロシア人が印刷物を通じて知っている(ブィリーナはそもそも伝承された地域が限定的だったし、民話はアファナーシエフの決定版の普及率が高すぎる)。他方でほとんどの神々は、そもそも語り継がれておらず、19世紀以降に学者が «発掘» したものを、印刷物を通じてようやく知った。
 これに対して、以下に紹介する «精霊» たちは、各地で語り継がれており、にもかかわらず印刷物になることは少なく、決定版と呼べるようなものは存在しなかった。このため、イメージが統一されていない。日本でも、天照大神は記紀によってイメージが統一されているが、だいだらぼっちなどは『もののけ姫』などがあったにもかかわらず、依然イメージが統一されていない。以下に紹介するのは、あくまでも «種々のイメージの中のひとつ» でしかない。

ドモヴォーイ домовой
ドーム дом (家) の精霊。
 あらゆる家屋、あらゆる家族にいる存在である。それだけに、ある意味ロシア人にとって最も身近な存在である。ただ単に дедушка (お爺さん)、старик (老人) などと呼ばれることもあるが、それも故なきことではない。しかしそれだけに、地域ごと、それどころか家庭ごと、個人ごとのイメージの違いが大きい。
 元来は、言うまでもなく、家(家屋、家族、家庭)の守護神的存在であった。しばしば事実上 «家族の一員» とすら考えられていた。別名のとおり、通常は白ひげをはやした老人と想像されている。しばしば一家の主人と、外見も性格も、さらには癖なども似ていると思われた。とはいえ、通常は不可視の存在であり、たとえ見えたとしても見てはいけないと言われた。活動の時間帯は夜中。夜中に聞こえる物音はドモヴォーイが活動する音であり、朝にはその痕跡が見られる(家具が動いていたり)。
 ドモヴォーイが存在するのは、家の中でも特にペーチ(炉)の上か下だと考えられていた。
 ドモヴォーイは、人間の主人と並ぶその家の主人であり、人間の主人が公正で善を愛すれば、ドモヴォーイもかれを助け、一家は繁栄する。家畜を殖やし、家から悪を追い払う。しかし人間の主人がドモヴォーイの機嫌を損ねれば、ドモヴォーイは非情で苛烈な存在となる。人間にも家畜にも病気が蔓延し、貧困が訪れ、家庭は崩壊する。
 キリスト教の浸透に伴い、否定的な側面が強調されるようになった。
ポレヴォーイ полевой/ポレヴィーク полевик
ポーレ поле の精霊。
 ロシア語のポーレとは、人間の住む都市・村落と対比された自然の «野原» であると同時に、森と対比された «平原»、都市と対比された «畑» でもある。このためポレヴォーイにも、様々な矛盾した性格が混然一体となっている。
 おそらく最も一般的には、ポレヴォーイは放牧地 луг と結びつけられている。ここではルゴヴィーク луговик と呼ばれることもあるが、ルゴヴィークはポレヴォーイの子だとされることもある。いずれにせよ、家畜、特に牛を放牧する際には、ポレヴォーイの加護を祈る。また耕地の境界線(となっているあぜ道) межа もポレヴォーイにとっては重要な場所で、メジェヴォーイ межевой という子がいる、ともされる。多くの土地では、ポレヴォーイは日中の光と暑さに関連づけられており、農民が真昼に働いていると気を失わせる。草原を吹きわたる風と結びつけられることも多い。さらに、地方によってはポレヴォーイはレーシイの別名とされることもある。
 外見は様々で、若者とされたり、小柄な白髪の老人とされたりする。尾を生やしているともされる。白馬に乗っているとかトロイカ(三頭立ての馬車・橇)に乗っているとされることもあるが、自分の足で走り回っているとされることも多い(足は速い)。
ポルードニツァ полудница
ポールデニ полдень (正午・真昼) の精霊。真昼というのは、真夜中とともに、24時間のうちでも特別な意味を持った特殊な瞬間と考えられていた。
 外見は、美しい乙女であったり醜い老婆であったりと一定しないが、明るい色(太陽の光)のイメージは共通している。
 ポルードニツァはポーレの存在であり、人間の手からポーレを護ると同時に、ポーレで働く人間を護る存在でもある。巨大なフライパンを持っており、太陽の熱でパンをつくる。基本的には花の咲いている時期にしか現れない。真昼に働いている人間に害をなし、時には死に至らしめる。この点は、同じくポーレの存在であるポレヴォーイと同様である。
 しばしばルサールカと混同され、そのイメージが投影される。
レーシイ леший
レース лес (森) の精霊。
 森の国であるロシアでは、森の精であるレーシイは非常に身近な存在である。異名も多いが、ここでは紹介しない。
 鬱蒼とした人も通わぬ森に住むが、時には荒地にもいると言われる。いずれにせよ、基本的には «文明の手の及ばぬ森» の象徴である。人は森を切り開いて耕地とし、家を建て、森の恵み(木材や動物)を受けている。つまり森とは人間にとって、利用し征服すべきものであるが、人間から森への恩恵は一切ない。このためレーシイは、基本的に人間に敵対的な存在と見なされている。それは同時に、ドモヴォーイやポレヴォーイとも敵対的であることを意味する。
 その外見については様々に想像されているが、基本的には «バケモノ» めいた人の姿をしている(尾があるとされることもある)。人の言葉を話すことはない。レーシイの言葉は、森に満ちている «人間には理解できない» 様々な音である。
 レーシイは周囲の状況にあわせて身長を大きくも小さくもすることができる。が、基本的には巨体で、また非常な怪力で、巨木を根から引き倒すこともできる。一方で、小人であるともされる。
 レーシイは森の支配者であるから、森に住む動物もまたレーシイの支配下にある。狩人には、レーシイへの供物は不可欠である。
ヴォデャノーイ водяной
ヴォダー вода (水) の精霊。
 川と湖の国でもあるロシアでは、水の精ヴォデャノーイもまた非常に身近な存在である。異名も多く、またルサールカやマーフカなど、同じく水と関連する存在がほかにもいる。
 当然水中、一般的には水底に住む、水の主人。と言うよりも、より正確には、川、湖、沼、泉の主人(ロシアには海はなかった)。すなわち、«生命の源» とか «生活水» といったイメージではなく、時として «人の命を奪う存在» として、通常は否定的な、危険な存在と見られていた。人を危険な場所に誘い込み、船を難破させ、堤防を決壊させる。
 しかしその一方で、人に善をなすこともある。嵐の日に船乗りが遭難を免れればそれはヴォデャノーイの加護があったからであり、漁師が大漁に恵まれればそれはヴォデャノーイの恩恵である。このために船乗りや漁師は、ヴォデャノーイに犠牲を捧げた(それはかつては人間だった)。
 外見は、人間のように服を着ていると考えられていた上掲の精霊たちと異なり、一般的には裸だとされる。ひげを生やした老人とされることが多いが、レーシイ以上にバケモノじみた姿をしていると考えられていた。すなわち、手足は人間のものではなく獣・魚の四肢で、角と尾を生やしている。顔立ちはほとんど魚である。
 冬は眠っており、春になって起き出す。
ルサールカ русалка
汎スラヴ的な水の精霊。とはいえ、ルサールカという名前はかなり地域的に限定される。
 水の精霊ではあるが、ヴォデャノーイと同様に、自然の中の川や湖、沼の住人であるから、都会を流れる川などとは基本的に無縁である。そのため、時に野や森にいるとされることもある(もちろんこの場合の野や森には、川や泉がある)。地域によっては、ルサールカはヴォデャノーイとレーシイのふたつの特徴をあわせもった存在としてイメージされているところもある(レーシイの妻とされることも)。
 通常は若く、髪の長い美女で、色のイメージは基本的に白。裸で、肌も白く、髪も明るい。しかし時には乱れ髪の醜い女とされることもあり、その時は色のイメージは黒になる。どちらにせよ、プラトークや帽子はかぶらない(かつてのロシアでは女性が髪を他人に見せることははしたないとされた)。
 あるいは、下半身は魚という人魚の姿をしていることもある。むしろ近年では人魚というイメージの方が一般化しているように思われる。
 主に溺死した女性がルサールカになるとされた(ほかに洗礼を受けていない子供や、おかしな時間に水浴びをしている人など)。基本的に人に害をなす存在だが、場合によっては溺れかけた人を助けることもある。
 もともとは必ずしも害をなす存在ではなかったが、キリスト教の普及に伴い、非キリスト教的存在ということで否定的な側面が強調されるようになった。
 英語では『マーメイド』、日本語では『人魚』などと訳されているアレクサンドル・ペトローフのアニメのロシア語タイトルは『ルサールカ』であり、あれがほぼロシア人のルサールカ・イメージを代表していると言える。
マーフカ мавка
ルサールカと多くの共通点を有する汎スラヴ的な精霊。あるいは «ルサールカの別名» と言ってもいい。実際、マーフカは南ルーシ、特に南西ルーシ(ウクライナ)以外ではほとんどお目にかかることがない。ナーフカ навка、マイカ майка、その他、名前にいくつかのバリエーションがある。
 マーフカとなるのは、洗礼を受けずに死んだ子供、母親に棄てられた子供、死産の子供などである。これらの子供はルサールカによってマーフカになると考えられた。
 本来的には男女の区別はないが、マーフカという単語が女性名詞であるため、一般的には少女のイメージがある。しかしルサールカが一般的に人魚のように尾を有するとされているのに対して、マーフカにはちゃんと足があることが多い。
ベレギーニャ берегиня
元来は唯一無二の女神だったようだが、のちには無数にいる精霊と考えられるようになった。
 語源が беречь (護る) なのか берег (岸) なのかは定かではないが、少なくとも両者のイメージが混在している。
 前者のイメージとしては、ベレギーニャはロードとともに人々を生み育む強力な存在と見られていたらしい。ロジャニーツァとのイメージの混同もあったろう。
 しかし時代とともに、«岸» のイメージが強くなったためか、水の精霊として見られることが多くなった。人間に敵対的な存在として、しばしばウプィリと並び称され、学者の中にはルサールカの原形とする者、ルサールカと同一視する者もある。もっとも、逆に、人々をヴォデャノーイやルサールカから護る存在だとする者もいる(まさに беречь のイメージである)。
キキーモラ кикимора
家の精霊。
 背の低い女性である点は共通しているが、老婆であったり、若い女性であったり、年齢は様々。多くは醜いと考えられている。もっとも、人の目には見えない。
 家の精霊としてはドモヴォーイと同じだが、必ずしも家屋の中に住むとは限らない。中庭、家畜小屋、風呂場などに住むとも考えられた。
 どうもドモヴォーイほど «権威ある存在» とは見られていなかったようで、キキーモラのもたらす «害悪» と言えば、子供の眠りの邪魔をするとか、ものを失くしたり(隠したり)とか、女主人の糸紡ぎを邪魔したりとか。特に糸紡ぎとは関係が深く、キキーモラ自身も糸を紡ぐ。もっともその糸は家族の運命の糸だとされたり、キキーモラが糸を紡ぎ終えると家族の誰かが死ぬと考えられたり、そもそもキキーモラは糸を «逆に» 紡ぐと考えられたりしていた。しかしこのため、キキーモラを家族の運命(特に生死)を司る存在として畏怖する地方もある。
モローズ Мороз
ドモヴォーイやレーシイなどと異なり、モローズは普遍的な力を持ち、しかも複数性はない(唯一無二の存在)。その意味では神と見なすべきかもしれないが、ロシア語でモローズを «神» と呼んでいる文献は見たことがない。その一方で民話などにも登場するが、ロシア人にとってモローズは、実在の、しかも非常に身近な存在であった。
 モローズとはロシア語で、極寒を意味する。モローズはつまり、寒波の人格化・神格化である。そもそもは、人々を凍死させる冷酷非情で残酷な悪の魔法使いであった。もっともロシアでは、冬の寒さが厳しければ厳しいほど夏の実りが保証されると考えられていたため、モローズは一面で豊穣をもたらす善の側面も備えていた。
 ただし、こんにちモローズと聞いてこのようなイメージを抱くロシア人はいない。イメージの変化は1900年前後、ロシアにクリスマスの風習が西欧から持ち込まれたことで始まる。クリスマスにつきもののサンタ・クロースのイメージが、ロシアではこの怖ろしいモローズに重ね合わせられるようになったのである。
 こんにちモローズは、«モローズ爺さん Дед Мороз» として知られる。このイメージが確立されたのはスターリン時代の1930年代である。宗教的祭日であるクリスマスの風習を廃止するため、ヨールカ(クリスマスツリー)の祭りを大みそかに公的に催し、ここにモローズ爺さんを登場させ、子供たちにプレゼントを配るようにしたのである。この時、サンタ・クローズ然とした外見のイメージも新たに造形されたという。また、ロシア独自のイメージとして、モローズ爺さんには «孫娘» のスネグーロチカ(民話の登場人物)が必ず付き添うようになった。当然、ロシア正教会はモローズ爺さんに対して否定的である。
 なお、いつの頃からかモローズ爺さんの故郷はヴォーログダ州にあるヴェリーキイ・ウーステュグだという説が広まっている。1999年からは観光ツアーも企画され、ロシア中からモローズ爺さん宛の手紙が大量に届くという。
   162340 Россия,
   Вологодская область,
   г. Великий Устюг,
   Деду Морозу
で届く(はず)。なお、モローズ爺さんの誕生日は11月18日。ヴェリーキイ・ウーステュグに寒波(モローズ)が訪れる日である。

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最終更新日 10 09 2011

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