- セカンドネームのたぐいはない。イーミャは常にひとつだけ。
- イーミャは新たに創作されることはない。いまあるものを使いまわすだけ。
- イーミャにはそれぞれ決まった «愛称形» がある。
- 男性のイーミャと女性のイーミャと、それぞれ語尾が決まっている。
ロシア人のイーミャはひとつだけ
ロシア人にはイーミャはひとつだけで、他のヨーロッパの言語のようにセカンドネームのたぐいは存在しない。
たとえばイギリスのチャールズ皇太子のフルネームは、チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ。ヨーロッパ人にはこのように、イーミャを複数持っている人が多い。
ところが、ロシア人に限ってはこのようなことはない。ロシア人にも、日本人と同じく、イーミャはひとつだけなのだ。歴代の皇帝とて例外ではなく、最後の皇帝ニコライ2世もフルネームはニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマーノフ Никола́й Алекса́ндрович Рома́нов である。イーミャ+父称+姓である。ニコライ・ヴラディーミル・アレクサンドル・ヴァシーリイみたいに、いくつものイーミャを持つということはロシアにおいてはあり得ない。
ロシア人のイーミャに新作はない
次に 2 だが、これはほかのヨーロッパ諸国と同じである。ヨーロッパ(キリスト教圏)では、イーミャが新たに «創作» されることは基本的になく、いまあるものを使いまわすだけである。
いまわたしの手元にある『ロシア人のイーミャ辞典』には、3000 以上のイーミャが収録されている。しかしこの 3000 の中にも、ガラクティオーン Галактио́н とかリマ Ри́мма といったような、現在はおろか過去においてすらほとんど使われたことのないイーミャも含まれている。残念ながら統計的な数字が手元にないので印象で言うしかないのだが、おそらく(少なくとも現在)一般に使われているイーミャは男性だと 30 前後、女性だとそれより少ないのではないかと思われる。たとえばイヴァンとかヴラディーミルといったイーミャの持ち主は、過去現在をつうじてそれこそ掃いて棄てるほどいる。
ただし、これは近現代での話。たとえば17世紀以前、特に農民の間では、ちょっと異質なイーミャもかなり見受けられた。1579年の記録では、ネウポコイコ・ミハイロフ Неупоко́йко Миха́йлов という農民がいたとされている。ネウポコイコは「騒々しい」という意味である。1665年の記録では、銃兵隊の隊長はジマー・ヴォールコフ Зима́ Во́лков とされているが、ジマーというのは「冬」という普通名詞。その他様々な名詞や形容詞、さらには動詞に由来する単語がイーミャとして使われていた。これらは上記『ロシア人のイーミャ辞典』には載っていない。しかしその «痕跡» は、ファミーリヤ(姓)になって残っている(これについてはそちらを参照のこと)。
このようなイーミャが廃れ、ごく限られたイーミャだけが使いまわされるようになった背景には、教会による洗礼がある。異教的なイーミャ、聖書や聖者に由来しないイーミャは徐々に淘汰されて、教会に受け入れられたイーミャだけが残ったというわけである。ゆえに革命後、共産党政権の下では新しいイーミャも «創作» された。男性であればヴィレーン Виле́н (レーニンの頭文字)とか、女性であればレヴォリューツィヤ Револю́ция (「革命」)とか。しかしこれらも「そういうこともあった」というだけに終わっている。
ちなみに、語源的には、こんにちロシア人の間でポピュラーなイーミャはヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語起源がほとんどである。これは要するに、聖書の登場人物や聖者などのキリスト教起源のイーミャである。ヨハネ(イヴァン)、パウロ(パーヴェル)、ペテロ(ピョートル)、アンデレ(アンドレイ)、ゲオルギオス(エゴール/ゲオルギイ/ユーリイ)、バシレイオス(ヴァシーリイ)、デメトリオス(ドミートリイ)、コンスタンティヌス(コンスタンティーン)、サンタ・クロース=ニコラオス(ニコライ)、ヴァレンタイン(ヴァレンティーン)などである。ただしロシアはオルトドクス(ギリシャ正教)の国なので、カトリックの西欧に比べてラテン語起源のイーミャは多くはない。
スラヴ語起源のイーミャでこんにち残るのは、男性ではヴラディーミル、フセーヴォロド、そして〜スラーフ(ロスティスラーフ、ムスティスラーフ、スタニスラーフ等)ぐらいであろう。ただし女性では、リュドミーラ、スヴェトラーナなどのほか、ヴェーラ、ナデージュダなどロシア語の普通名詞からつくられたイーミャもある。
このほかに、北ゲルマン(スカンディナヴィア)語起源のイーミャが、イーゴリ、オレーグ/オリガ、グレーブといったところ。
チャールズ/シャルル/カールやヘンリ/アンリ/ハインリヒなどのゲルマン語起源のイーミャはロシアでは使われない(使うのはドイツ系かユダヤ人ぐらい)。ケルト語起源のイーミャもロシア人の認識としてはあくまでも «外来の»、«外国人の» イーミャである。西欧では他言語で使われているイーミャを «輸入» している例がしばしば見られるが、個人的な印象としては、ロシアでは西欧ほど一般的ではない(これにはロシア語の文法的な制約もある)。
ロシア人のイーミャの愛称形は決まっている
3 の、イーミャにそれぞれ決まった «愛称形» がある、というのはロシア語独自の特徴だろう。
愛称形が決まっているので、正式なイーミャがわかれば愛称形が、愛称形がわかれば正確なイーミャが、それぞれおのずとわかるというわけだ。
たとえば、ミハイール Михаи́л の場合、一般的な略称形はミーシャ Ми́ша、愛称形はミーシェニカ Ми́шенька やミーシェチカ Ми́шечка、といった具合である。それぞれ、少しづつニュアンスが異なる。たとえばミーシャは普通の省略形だが、ミーシェニカはどちらかと言うと幼い子を呼ぶニュアンスになる。だから小さいうちはミーシェニカと呼ばれていた少年が、思春期を迎えるとそう呼ばれることを嫌うようになったりする。これがたとえばおっさんになっても相変わらずかれをミーシェニカなどと呼ぶのは祖父母ぐらいなものだろう。
辞書によっては、それぞれのイーミャの愛称形が記載されているものもある。
もっとも、決まった愛称形を使わなければならない、などというルールはない。なので、独自の形で呼ぶ(呼ばれる)場合もある。たとえばミハイールの場合も、ものの本によれば愛称形は種々取り混ぜて 20 以上に及ぶとされている。それ以外にも人それぞれの愛称形があるかもしれない。私の知人にマイク Майк と呼ばれている奴がいたが、言うまでもなくこれは英語 Mike である(ロシア語のミハイールは英語のマイクルに相当する。ロシア語のミハイールには元来マイクなどという愛称形は存在しない)。
ロシア人のイーミャの語尾は男女で決まっている
最後に、男性のイーミャと女性のイーミャで、それぞれ語尾が決まっているというのは、ヨーロッパでは特にラテン系やスラヴ系に多く見られるように思う。
ロシア語にはドイツ語のように名詞に男性、女性、中性の区別がある。しかしドイツ語と違い、これらの違いは語尾を見れば一目瞭然である。男性名詞は子音、女性名詞は «-а» か «-я»、中性名詞は «-е» か «-о» で終わる(厳密に言うとそれ以外の語尾を取ることもあるが)。
当然、男性のイーミャは子音で、女性のイーミャは «-а» か «-я» で終わることになる。
具体例を挙げてみると、男性のイーミャはイヴァン Ива́н、ピョートル Пётр、パーヴェル Па́вел、ヴァシーリイ Васи́лий、ニコライ Никола́й 等々。女性のイーミャはアンナ А́нна、マリーヤ Мари́я、エカテリーナ Екатери́на、オリガ О́льга 等々。
なので、たとえばジャンヌという女性のイーミャをロシア語に移す場合、ジャン Жанн などとしてしまうとたいていのロシア人は男性のイーミャだと勘違いする。そこであえてジャンナ Жанна とする(ジャンヌ・ダルクはロシア語では Жанна д'Арк)。
例外として、男性のイーミャにイリヤー Илья́ やフォマー Фома́ というように «-а» か «-я» で終わるものがある。
なお、愛称形は男性でも «-а» か «-я» で終わる。
新生児のイーミャ・ベスト7
なお、参考までに新生児のイーミャのベスト7を以下に挙げる(ベスト10でないのは、たまたまベスト7までしか入手できなかったからで、他意はない)。
それぞれ、モスクワ(ロシア全土ではない)、アメリカ、イングランド & ウェイルズ(イギリス全土ではない)、ボローニャ(イタリアの都市)、フランス語圏スイス、ドイツ、スウェーデン、チェコ。これまた、たまたまこれしか入手できなかったからで、他意はない。
ロシア人のイーミャとの対応については、外国の名前のページを参照のこと。
モスクワ市戸籍登録局 | アメリカ | イ & ウ | ボローニャ | 仏語圏スイス | ドイツ | スウェーデン | チェコ | ||||
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2006 | 2007 | 2008 | 2003 | 2004 | 2005 | ||||||
男 | 1 | アレクサーンドル | アレクサーンドル | アレクサーンドル | ジェイコブ | ジャック | マッテーオ | ニコラ | アレクサンダー | オスカル | ヤン |
2 | イヴァーン | マクシーム | マクシーム | マイクル | ジョシュア | ロレンツォ | トマ | マクシミリアン | ヴィリアム | ヤクプ | |
3 | ニキータ | イヴァーン | イヴァーン | ジョシュア | トーマス | トンマーゾ | レオ | レーオン | ルカス | トマーシュ | |
4 | マクシーム | アルテョーム | アルテョーム | マシュー | ジェイムズ | ルーカ | ナタン | ルーカス | フィリップ | アダム | |
5 | アルテョーム | ニキータ | ドミートリイ | アンドルー | ダニエル | フランチェスコ | ノア | パウル | イサク | オンジェイ | |
6 | ドミートリイ | ドミートリイ | ニキータ | ジョゼフ | オリヴァー | アレッサンドロ | マクシーム | ルーカ | エリアス | マルティン | |
7 | エゴール | エゴール | ミハイール | イーサン | ベンジャミン | アンドレーア | サミュエル | ヨーナス | アレクサンダー | フィリップ | |
女 | 1 | アナスタシーヤ | アナスタシーヤ | アナスタシーヤ | エミリー | エミリー | ジューリア | エマ | マリー | エンマ | テレザ |
2 | マリーヤ | マリーヤ | マリーヤ | エマ | エリー | サラ | レア | ゾフィー | マヤ | エリシュカ | |
3 | ダーリヤ | ダーリヤ | ダーリヤ | マディスン | クロエ | ソフィア | クロエ | マリーア | ユリア | アデーラ | |
4 | アーンナ | アーンナ | アーンナ | ハンナ | ジェシカ | キアラ | エミリー | アンナ/アンネ | アリツェ | ナターリエ | |
5 | エリザヴェータ | エリザヴェータ | エリザヴェータ | オリヴィア | ソフィー | アリーチェ | ローラ | レオニー | イダ | アンナ | |
6 | ポリーナ | ヴィクトーリヤ | ポリーナ | アビゲイル | ミーガン | マルティーナ | ジュリー | レーナ | リネア | カロリーナ | |
7 | エカテリーナ | エカテリーナ | ヴィクトーリヤ | アレクシス | ルーシー | フランチェスカ | マノン | エミリー | エリン | クリスティーナ |
たとえば英語の場合、ジェイコブ、ジョシュア、ハンナ、イーサン、アビゲイル、クロエなど、いずれも近代に入ってから聖書から «発掘» されたイーミャである。ジェシカとオリヴィアはシェイクスピアが創作したもの。マディスンは姓、ミーガンもエリーももとは愛称形である。
ナタンもノアも、同じく近代に入ってから新たに «発掘» されたイーミャ。フランス語のマノンもドイツ語のレーナも愛称形。スウェーデン語のリネアは姓からつくられたもの。ここではスウェーデンで挙がっているオスカルも(日本ではアカデミー賞と『ベルばら』で有名だが)、現実的にはマクファースンがアイルランド語を基にでっちあげたイーミャである。
こういう例は、基本的にロシアにはない。聖書起源のイーミャを使うなら、新たに聖書から見つけ出してくるよりも、古くから教会暦に記載されているイーミャを使うのがロシアでは一般的だろう。また姓がイーミャになるというのは、ロシア語では文法的にほぼ不可能である。
愛称形をイーミャにしてしまうというのは、どうやら近年はそうとしか思えない例もいくつか見られるようだが、一般的にはなり得ないと思う。愛称形というのは、あくまでも本来形のイーミャに特殊なニュアンスを持たせたものであり、ロシアでは本来の形と愛称形とを使い分けているからだ(ロシア人への呼びかけ方参照)。
どう考えても新たに創作したイーミャとしか思えない例も、近年いくつか見られる。しかしこれもごく少数である。かつてアレクセイ・トルストーイがヒロインのためにアエリータというイーミャを創ったことがあるが、たとえ小説や戯曲の登場人物であってもでっち上げのイーミャを使うというのはロシアでは例外的である。しかもアエリータは火星人であった。ロシア人がイーミャをでっち上げるのは、犬や猫の場合だけである。
そういう意味で、上で述べた 2. とも関連するが、ロシア人はイーミャに関しては非常に保守的である。あるいは、近現代になって非常に保守的になったと言うべきか。と言うのも、18世紀頃までは、特に一般庶民の間ではわけのわからないイーミャが次々につくられていたからである(これも上で述べたとおり)。
ソ連崩壊後、おそらくは西欧の影響を受けて、これまでロシア語にはなかったイーミャがたまに見受けられるようになっている。上述のように、愛称形としか思えないもの、どう考えても創作イーミャとしか思えないものもある。これは特に女性名に見られる現象である。とはいえ、割合からしても数からしても、依然としてごく少数であり、そういうイーミャが(あるいはそういうイーミャをつけることが)一般化するとは個人的には思えない。むしろ、外来のイーミャをつける例は増えるだろう(事実エドワード、ロバート、アリス、ダイアナなどはかなり一般的なイーミャになっている)。