число
ロシア語には、単数(1)と複数(2以上)というふたつの概念がある。しかしこれはあくまでも文法上の概念であり、必ずしも実際の数量と合致しない。すなわち、ひとつしかないものを複数形で表現する場合もあれば、複数あるものを単数形にしてしまう場合もある。
なお、かつては2を表す «双数» もあったが(ゆえにかつては複数は「3以上」を表した)、こんにちでは двести などに痕跡を残すだけである。
名詞、形容詞、代名詞、動詞は数によって変化する。数詞はそれ自身が数の概念を含んでいるので変化しないが、1 один のみは例外的に単複の両形を持つ。
なお、ここでは名辞類、と言うより名詞の数を論じる。形容詞と代名詞は名詞に従属する。動詞の数、特に主語と述語動詞との数の一致の問題は、別途。
形
ロシア語の名辞類は、単数と複数において語尾の形が変わる。ただし、単数形は性によって3つの形態を取るが、複数形においては性は意味を失い、形態はひとつだけとなる(中性名詞だけが特殊)。
男性 | 女性 | 中性 | |
---|---|---|---|
単数 | |||
名詞 | - / -ь | -а / -я / -ь | -о / -е |
人称代名詞 | он | она | оно |
形容詞長語尾 | -ый / -ий | -ая / -яя | -ое / -ее |
形容詞短語尾 | - / -ь | -а / -я | -о / -е |
★動詞過去形 | -л | -ла | -ло |
複数 | |||
名詞 | -ы / -и | -а / -я | |
人称代名詞 | они | ||
形容詞長語尾 | -ые / -ие | ||
形容詞短語尾 | -ы / -и | ||
★動詞過去形 | -ли |
単数形と複数形の相違
文法概念としての数は、必ずしも実際の数量とは一致しないが、やはり通常は単数形は「1」を意味する。特にロシア語には冠詞がないので、この点に注意が必要である。
- Студе́нт опа́здывал ле́кцию.
- Студе́нт опа́здывал ле́кции.
- Студе́нты опа́здывали ле́кцию.
- Студе́нты опа́здывали ле́кции.
この例文において、1 では Студент も лекцию もどちらも単数形である。このため、総称表現の可能性もあるし、前後のコンテキスト次第でさまざまな意味が考えられるが、単純に言えば「ひとりの学生が1回の授業に遅れかけていた」といった程度だろうか。
これに対して 2 では Студент は単数形だが лекции は複数形である。当然、「ひとりの学生が複数の授業に遅れかけていた」はおかしいので、「ひとりの学生が複数の授業に(いつも?)遅刻した」という反復の意味になろう(この点、体も参照)。
3 では逆に、Студенты は複数形だが лекцию は単数形である。これも 1 にならって考えれば、「複数の学生が1回の授業に遅れかけていた」ということになろう。
最後の 4 では、Студенты も лекции も複数形である。となると、これまた「複数の学生が複数の授業に(いつも?)遅刻した」という反復の意味だろうか。
英語では «可算名詞» と «不可算名詞» とに分類することがあるが、ロシア語にはそのような分類はない。あえて言うなら、次のように分類できるだろうか。
- 単複両形を持つ名詞
- 単数形だけの名詞
- 複数形だけの名詞
単数形だけの名詞とは、抽象名詞、物質名詞、集合名詞、固有名詞である。
複数形だけの名詞には、通常はペアか複数があつまってひとつのものとなっている普通名詞がある。靴や手袋などがその代表例だが、単数形がないわけではない。しかし単数形だと「片方」という意味になる。
このほかに、さまざまな理由から複数形をしている名詞が、普通名詞、抽象名詞、集合名詞、物質名詞、さらには固有名詞と、あらゆる名詞に存在している。たとえばギリシャの首都アテネはロシア語では Афины となるが、これはギリシャ語の語尾の母音がロシア語で ы と音写されたため複数の形になっているだけで、当然「複数のアテネ」などという意味ではない。「お金」はロシア語では деньги だが、これもテュルク語の語尾の母音がロシア語で и と音写されたためである。もっとも、ロシア語の感覚としては「お金」は複数しか存在しないものと認識されているということでもあるかもしれない(実際もとのテュルク語の語尾は「イ」という母音ではなかったらしい)。выбор は「選択」という意味だが、複数で выборы となると「選挙」という意味になる。逆に言えば、「選挙」という意味の単語はロシア語には выборы という複数名詞しか存在しない。「オリンピック」は、英語でもロシア語でも複数形である(Olympic Games、олимпийские игры)。これは、1度の大会全体を一括して「オリンピック」という単数で捉えている日本語と違い、英語やロシア語ではトラック100メートル走、体操個人総合、柔道男子60キロ級、など個々の競技の集合体として捉えているためであろう。
ただしロシア語では、文字通り単数形だけしか使われない名詞、複数形だけしか存在しない名詞というものはごくわずかである。たとえば抽象名詞や物質名詞でも、下記のように複数形で用いられることもある。деньги のように形の上で複数形しか存在しない、という単語には単数形はあり得ないが、そんなものはごく小数である。その意味で、ここで言う「単数形だけの名詞」、「複数形だけの名詞」とは、「通常は複数形が使われない名詞」、「通常は単数形が使われない名詞」、あるいは「単数形と複数形とで意味が異なる名詞」と考えるべきである。その意味で、個人的にはこの区別は学習上はあまり意味がないと思っている(個々の単語別に辞書を引いて使い分けを覚えた方がいい)。なので、あえて列挙しない。
単数形と複数形の使い分けを図式化してみると、次のようになろうか。
単数 | 複数 | ||
---|---|---|---|
普通名詞 | 1/総称表現 | 2以上/集合/不定 | 強調 |
抽象名詞 | 右記以外 | 具体的なモノ | |
物質名詞 | 右記以外 | 種類の違い | |
集合名詞 | 右記以外 | 所属の違い | |
固有名詞 | 右記以外 | 類型表現の複数 |
総称表現
«総称表現» とは、単純に言えば「〜〜というものは」である。普通の名詞や具体的な事物を抽象化・一般化して述べる表現で、「ライオンは危険な動物である」の「ライオンは」が、この場合、総称表現となる。
ロシア語では、基本的に総称表現には単数形が用いられる。
- Ле́в ─ опа́сное живо́тное. 「ライオンは危険な動物である」
- Вокру́г растёт одна́ сосна́. 「周囲には松だけが生えている」
- В зде́шних ре́ках во́дится щу́ка, о́кунь, нали́м. 「ここの川にはカマス、スズキ、メンタイが生息している」
- Сре́дний студе́нт отве́тит на э́тот вопро́с. 「平均的な学生はこんな問題答えられる」
このような総称表現は、特に出版物でよく用いられる。以下、新聞の見出しから拾ってきたものである。
- Для чего́ челове́к у́чится? 「何のために人は学ぶのか」
- Огуре́ц в э́том году́ не уроди́лся 「キュウリは今年は不作だった」
огурец は慣習的に複数形で使われる名詞である。それが単数形で使われているのは、総称表現だから当然ではあるが、文法的に崩れた俗語的表現と言っていい。
総称表現と定性
英語などでは、総称表現には数とともに冠詞が大きく関わってくる。
冠詞の役割は、基本的に、名詞を可算名詞と捉えているか不可算名詞と捉えているかを区別することと、もうひとつは «定性» の表現である。ロシア語には冠詞が存在しないが、ロシア語においては加算名詞と不加算名詞の区別はないので、その意味では困らない。一方で定性は、前後のコンテキストで表現する。
- ある日 森の中 クマさんに出会った
クマさんの言うことにゃ 「お嬢さん お逃げなさい」 - One day in a forest I met a bear.
The bear said, "Girl, run away."
英訳は仮のものであるし(わたしの英語力では間違いもあろう)、そもそも原詞とは無関係である。それはともかく。
日本語歌詞の2行目の「クマさん」は、言うまでもなく1行目の「クマさん」を指している。すなわち、「そのクマさん」である。よって英語では定性を表現する the という定冠詞を使った。
定性の表現は、日本語でもこのように決まっておらず、「その」といった言葉を補うのが一般的である。
ところがロシア語では「その」に相当する単語を補うことすらしない場合が多い。上記の歌詞をそれっぽいロシア語に訳してみると、次のようになろうか。
- Оди́н де́нь в лесу́ я́ встре́тила медве́дя.
Медве́дь сказа́л, «Де́вушка, убеги́.»
2行目の Медведь という単数形は、言うまでもなく、「クマというもの」という総称表現ではなく、「そのクマ」という定性表現である。もちろん、英語でもロシア語でも代名詞を使う方が一般的であることは言うまでもない。
では、この歌詞の次に「クマというものは人間を食べてしまうのだから」と続くとしたら、この「クマというもの」はどう表現されるだろうか。単数形だと、このコンテキストでは、2行目と同じく「そのクマ」、すなわち森の中で出会ったクマという意味になってしまう。そこで、仕方なく複数形にするのである。
- Оди́н де́нь в лесу́ я́ встре́тила медве́дя.
Медве́дь сказа́л, «Де́вушка, убеги́.»
Ведь медве́дь е́ст челове́ка. - Оди́н де́нь в лесу́ я́ встре́тила медве́дя.
Медве́дь сказа́л, «Де́вушка, убеги́.»
Ведь медве́ди едя́т челове́ка.
1 においては、1行目、2行目、3行目のクマはすべて同じ一頭のクマを指していることになる。これに対して 2 では、1行目・2行目のクマと3行目のクマはまったく別である。
上述のように、ロシア語において総称表現は基本的に単数形で表される。しかし前後のコンテキスト次第では、このように複数形が使われることもある。
同じく前後のコンテキスト次第では、単数形も複数形も定性を表現することがある。ロシア語の読解においては、常に名詞が「ある〜」なのか「この〜」なのかを前後のコンテキストから判断することが求められる。
総称表現と集合表現
単数形が総称表現だとすれば、複数形は集合表現である。ここで言う «集合表現» とは、「〜〜一般」といった程度の意味である。
- Челове́к покоря́ет приро́ду.
- Лю́ди покоря́ют приро́ду.
どちらも「人は自然を手懐けている」といった程度の意味である。単数形は総称表現であるから「人というもの」で、複数形は「人々」であるが、ではどう違うかと言うと、意味的な違いはない。違いはニュアンス的なものである。複数形は複数を示すが、単に「複数の人」であって、せいぜい「人一般」を意味するにすぎない。それは必ずしも「すべての人」というわけではない。これに対して単数形は上述のように総称表現であり、どちらかと言うと例外を許さぬ「あらゆる人」といったニュアンスを持つ。複数形に比べると抽象性の高い表現である。
- Ма́льчик лю́бит игра́ть на у́лице.
- Ма́льчики лю́бят игра́ть на у́лице.
これまたどちらも「男の子は外で遊ぶのが好きだ」という程度の意味である(上述のように、前後のコンテキスト次第では「その男の子(たち)」という定性表現になる)。単数形は総称表現であるから、ひとりの例外も許さない「ありとあらゆる男の子は」であり、複数形は複数表現・集合表現で、「複数の男の子たちは」、あるいは「男の子一般は」である(外で遊ぶのが好きではない男の子がいるかもしれない)。
この場合は、複数形を使った集合表現の方が自然であることは言うまでもない。
単数形による総称表現よりも、複数形による集合表現の方がふさわしい単語というのが存在する。
上でも述べたが、単数形を使った総称表現は複数形に比べると抽象性の高い表現である。ゆえに、抽象化に適さない「人を表す名詞」は、複数形による集合表現が使われる。ロシア人 русские やイギリス人 англичане などの人種・民族・国民、ジャーナリスト журналисты や兵士 солдаты などの職業・役職、その他である。
とはいえ、上掲の例文にもあるように「平均的な〜 средний」、あるいは「典型的な〜」、「模範的な〜」などといった表現は、人を表す場合でも抽象性が高いので、単数形による総称表現が使われる。
一部の動植物(キノコ грибы など)や、ペアをなすもの(靴 сапоги など)、あるいは髪の毛 волосы なども、単数形による総称表現には馴染まない。しかしここら辺になってくると、文法的にどうこうではなく、もはやフィーリングや慣習の問題であろう。
語結合によっては意味にかかわらず複数形が要求される場合もある。быть в гости、пойти в спортсмены、служить в солдатах 等々。しかしこれまた文法の問題ではなく、個々の単語の使い方の問題である。
逆に言えば、事物、中でも抽象性の高いものは単数形による総称表現の方が相応しいということになる。
特殊な総称表現
同種のものが複数ある場合、通常は単数形を使う。
- Все́ поверну́ли го́лову.
- * Все́ поверну́ли го́ловы.
「みんなが振り向いた」と言う場合(ロシア語では「頭をまわした」と言う)、理屈から考えれば、みんなひとりひとりにそれぞれ別々の頭がついているから、頭は複数形 головы でなければならない。ところがロシア語では、こういう場合、頭を単数形 голову にする。頭がいくつあるかは問題ではなく、「頭という同じもの」であり、しかもそれがすべて同じ動作をしているのだから単数形を使うということなのだろう。このような場合に複数形を使うのは、文法的には問題ないとしても、感覚的におかしい。
これを普遍化して言えば、次のようになろう。すなわち、ロシア語では、複数のものが同一の動作をする場合、あるいは複数のものを一括して捉える場合には単数扱いする。それを複数扱いした場合には、「てんでんばらばら」といったニュアンスを持つ。たとえば、
- Из пятисо́т рубле́й оста́лось де́сять. 500ルーブリのうち残ったのは10ルーブリだった。
- Из пятисо́т студе́нтов оста́лось де́сять. 500人の学生のうち残ったのは10人だった。
- Из пятисо́т студе́нтов оста́лись де́сять. 500人の学生のうち残ったのは10人だった。
最初の文では、主語は10ルーブリだから理屈上は述語も複数形にならなければおかしいが、10ルーブリを一括して認識しているために単数形を用いている。
これに対して主語が10人の学生という場合、述語は単複両方があり得るが、単数形を用いると「全員が一致して同じ行動を取った」というニュアンスが生じるのに対して、複数形を用いた場合には「個々人がそれぞれ独自の判断で勝手に行動し、結果として同じ行動を取った」というニュアンスを持つ。
ただしこのように主語が個数詞の場合の述語の単複の区別は、結合する名詞の有生性や語順など複雑な問題をはらんでいるので、別の機会に説明することにする。
複数形の特殊表現
強調表現
複数形は、話者の感情的な表現として使われることがある。この場合、多くはその単語を強調するが、特に «重厚長大» のニュアンスが感じられる。
ちなみに、これはあくまでもニュアンスの問題であるので、通常は意味的にも文法的にも、単数形を使って構わない。以下の例文もすべて単数形に置き換えることができるし、差異はわずかなものである。
- 普通名詞
- И чему́ то́лько тебя́ учи́ли в университе́тах. 「大学はお前に何を教えてきたんだか」
- 物質名詞
- До горизо́нта желте́ли пески́ пусты́ни. 「地平線まで砂漠の砂が黄色く染めていた」
- 抽象名詞
- Зима́ роско́шествует. Не́т конца́ её великоле́пьям и щедро́там. 「いまや冬たけなわで、その壮麗さと恩恵には限りがない」
- 固有名詞
- Мы́ не допу́стим но́вых осве́нцимов! 「我々は新たなアウシュヴィッツを許さない」
普通名詞は通常、ふつうに複数形を持つ。このため複数の意味の複数形と、そうでない意味で使われる複数形との区別が容易ではないが、最初の例文では明確に単数の意味の複数形である。この複数形は、「この大学も、あの大学も、どの大学も」といったニュアンスで使われている。
複数形が表現する強調には、数量的な多さ、規模的な大きさ・広さなどの強調という意味合いがある。物質名詞の例文として挙げた пески がそれである。この場合、意味的にも文法的にも、それどころか実用的にも単数形で何の問題もない(そもそも物質名詞であるから単数形の方が相応しいと言える)。しかし複数形にすることによって、砂の空間的な広がりを強調していると言える。
抽象名詞の複数形は、直接的に強さ、激しさを強調する。щедрота などは、こんにちでは単数形は使われなくなっている(もっとも複数形でも古臭い言葉だが)。これは、「恩恵」、「恵み」、「贈り物」という意味で常に複数形で強調されていたため、単数形が使われなくなったものである。
本来は数えられないはずの固有名詞を普通名詞化して数えられるものとする、というのは文法的には多くの言語に見られる現象で、ここでは「アウシュヴィッツのような非人道的行為」というような意味合いになろうし、たとえば эйнштейн なら「アインシュタインのような天才」であろう。それを複数形にするというのは、上述の普通名詞の例文と同じく、「いかなるアウシュヴィッツであれ」といったニュアンスが込められていると考えられる。
なお、人称代名詞において、я の代わりに мы を(君主の一人称複数)、ты の代わりに вы を(丁寧表現)使うことがあるが、これもこの強調表現の一種と考えられる(人称代名詞参照)。
普通名詞の複数形
普通名詞の複数形には、文字通りの複数(2以上)、先述の集合表現、上の強調表現のほかに、不定表現がある。
- У ва́с е́сть де́ти? 「おたくにお子さんはいますか?」
で複数形が使われているのは、дети に単数形が存在しないから、というだけの理由ではない。何人いるか(あるいはそもそもいないか)わからないので、複数形を使っているのである。
- Когда́ я́ пришёл в себя́, коро́бка исче́зла. Должно́ бы́ть, её вы́бросили санита́ры. 「気がつくと、小箱が消えていた。看護士が棄てたに違いない」
実際に看護士が棄てたのだとして、その看護士が複数であることはまずあり得ない。つまり理屈からすればこの場合の看護士は単数形が相応しいということになる。しかし小箱を棄てた看護士が、どの看護士かはわからない。そのような不定性の表現として複数形になっているのである。なお、理屈からすれば小箱を棄てた看護士が複数であった可能性もゼロではないが、この場合はその考慮はない。
不定人称文の述語が三人称複数になるのは、このような複数の使い方を反映したものである。
抽象名詞の複数形
抽象名詞の複数形は、具体的なものを指す場合がある。これは特に感情や気分を表す抽象名詞に見られる。
- Каки́е у́жасы о́н пе́режил!. 「何という恐怖をかれは経験したことか」
- О́н ста́л перечисля́ть красоты́ родно́й страны́. 「かれは母国の美しさを数え上げはじめた」
例文の ужасы は本来の「恐怖」という抽象的な意味ではなく、「恐怖を覚えさせる個々の具体的な出来事」という意味で複数形になっている。красоты も同様で、たとえば「日光の美」、「富士山の美」、「京都の美」等々、「風光明媚な景勝地」という意味を表している。
このように、抽象名詞の単数形は文字通りの抽象概念を表すが、複数形はその抽象概念を体現する具体的なものを意味する。そのため辞書の中には「単数と複数とで意味が違う」みたいなことを言っているものもある。明確に違う場合もあるが、通常はただ単に単数形の抽象概念を複数形で具体化しているだけの違いである。общество「社会」と общества「団体」など。
この用法も強調表現の一種であり、ゆえに強調のニュアンス、特に上で述べたような数量的な多さ、規模的な大きさ・広さなどの強調というニュアンスがある。время は単なる「時」だが、времена はより長期にわたる時、「期間」、「時代」といった意味合いになる(しかも具体的に歴史上のある時代を指す)。
物質名詞の複数形
物質名詞の複数形は、種類を表す。
- У на́с ма́ло чаёв; то́лько цейло́нский и япо́нский. 「うちにはお茶(の種類)は少ししかありません。セイロン茶と日本茶だけです」
вода は「水」という意味では単数形でしか用いられない。しかし「ミネラル・ウォーター」、「六甲の水」、「水道水」、「モスクワの水」といった意味では複数形を用いる。
このため、抽象名詞と同じように、辞書の中には「単数と複数で意味が違う」と言っているものがある。
集合名詞の複数形
- Да здра́вствует дру́жба мѐжду все́ми наро́дами ми́ра! 「世界の全民族の友好万歳!」
集合名詞の中には、複数形になり得るものがある。複数形になることによって、いわば «所属» の違いを表現している。
народ は「民衆・大衆」、「人々・群集」という意味の集合名詞である。ところが日本の民衆とソ連の民衆、中国の民衆とブラジルの民衆など、民衆・大衆、群集は国ごと、地域ごとに区別することが可能である。народ を複数形で使った場合には、このような意味合いが生じる。このような、国ごとの民衆のことを日本語でも「国民」といって区別する。このため、露和辞典では、「народ という単語は集合名詞としては『民衆・大衆』という意味だが、普通名詞としては『国民・民族』という意味である」と述べていたりするが、たぶんロシア人はそんな違いなど意識していない。
аппаратура は「器具・装置」を意味するが、「うちの実験室の器具とおたくの実験室の器具」と言うような場合には複数形になる。клавиатура は「鍵盤」という意味だが、「このピアノの鍵盤とあっちのピアノの鍵盤」という場合には複数形である。もっとも、こんにちでは клавиатура は「キーボード」という意味でほとんど普通名詞化している。
固有名詞の複数形
上述のように、固有名詞を普通名詞化することで「〜のようなもの」といった類型を表現する。
- По путеводи́телю, ка́жется, в ми́ре мно́го пари́жей, вене́ций, ри́мов и афи́н. 「旅行案内書によると、世界には多くのパリ、ヴェネツィア、ローマ、アテネがあるらしい」
- В исто́рии челове́чества быва́ли петры́ вели́кие. 「人類の歴史には何人ものピョートル大帝がいた」
- Та́м я́ встре́тил бу́дущих эйнште́йнов. 「あそこでわたしは将来のアインシュタインたちに会った」
ちなみに姓は、複数形になると「〜家の人々」、「〜一家」、「〜夫妻」、「〜兄弟」などを意味する。Романовы「ロマーノフ家」や «Братья Карамазовы»『カラマーゾフ兄弟』など。もちろん夫婦別姓の場合や、親と嫁に行って姓の変わった娘など、その限りではない。
名は容易に複数形になる。У на́с в кла́ссе мно́го Ива́нов.「うちのクラスにはイヴァン(という名の男の子)がいっぱいいる」など。
形容詞の単複
形容詞を名詞化することがあるが、その場合、単数中性形は「〜なモノ」で具体的な事物を表し、複数形は「〜な人々」で集合表現となる。ただしこれは一般論で、実際は個々の形容詞ごとに複雑である。以下に例を挙げてみる。
単数形 | 複数形 | ||
---|---|---|---|
男性形 | 女性形 | 中性形 | |
главный「主要な」 | главная「主要な」 | главное「主要な」「大事なコト」 | главные「主要な」「重要人物たち」 |
весь「すべての」 | вся「すべての」 | всё「すべての」「すべてのもの」 | все「すべての」「すべての人々」 |
трудный「困難な」 | трудная「困難な」 | трудное「困難な」「困難なコト」 | трудные「困難な」 |
бедный「貧しい」 | бедная「貧しい」 | бедное「貧しい」 | бедные「貧しい」「貧乏人(たち)」 |
знакомый「既知の」「知人(男)」 | знакомая「既知の」「知人(女)」 | знакомое「既知の」 | знакомые「既知の」「知人(複数)」 |
управляющий「制御している」「管理人(単数)」 | управляющая「制御している」 | управляющее「制御している」 | управляющие「制御している」「管理人(複数)」 |
главный と весь はどちらも典型的な使い方で、単数中性形が「〜なモノ」を、複数形が「〜な人々」を表している。
трудный の複数形が「困難な人々」という意味を表すことはおそらくないが、そもそも、日本語でもそうだが、この形容詞は意味的に人を表せない。
逆に бедный の単数中性形が「貧しいもの」という意味を表すことがないのは、これまた意味的に具体的な事物を表せない。
знакомый の単数中性形が「既知のもの」を指すことはあろうが、それよりも単数男性形・女性形で「単数の人」を指すことができる。意味的に単数が表現できなければ使えないからだ。
управляющий はそもそも純粋な形容詞ではなく形動詞だが、形動詞でも話は同じである。ただしこの場合も特殊で、単数男性形が「単数の人」を表す。単数女性形が人を指すことができないのは、знакомый と異なり управляющий が「職業」を表すからだろう。