ロシア学事始ロシア語講座初級

ロシア語講座:初級

ちょっと理屈っぽい話から始めたい。すっ飛ばしていただいても問題ない。

 どの言語でも、特に日常会話では文法上必要な単語を省略する。その一方、言語によっては、必要なはずの主語、目的語、述語などが、文法上必要ない(あってはならない)文というものがある。話をロシア語に限定すると、ロシア語には「主語があってはならない文」というものが存在するのである。
 日本語は、主語というものが曖昧で(そもそも «主語» という文法概念がヨーロッパ系の言語を分析するために生み出されたものだから当然だが)、あまりわれわれ日本人にとっては「主語がある・ない」という問題がピンと来ない。もっとも、日本語では目的語も曖昧だ。だから平気で「ぼくは君好きだ」などと言う。「ぼくは君好きだ」などという文は、日本人なら誰でも変だと思うはずである。「好き」という単語が動詞ではないから、ということだろうか。
 一方、ロシア語を含むヨーロッパ系の諸言語は、主語・述語・目的語を必要とする。述語は必ず動詞(を含む)、目的語は必ず名詞(および名詞扱いする形容詞・数詞・代名詞・動詞など)の目的格・対格・三格・四格など。そして主語は、主格の名詞である。
 文法上どんな文にも主語を必要とする言語の代表格が、英語であろう。

など、主語となっている it や they には何の意味もない。ただ、英語文法が主語を要求するため、やむなく形の上だけの主語(形式主語)として置いているのである。

 ヨーロッパ系の言語でも、一人称や二人称では主語がない場合が少なくない。これは動詞の語尾変化を見れば主語が容易に推測できるからである。ロシア語を例にとれば、

の主語が я であることは、говорю という動詞の語尾変化から明らかである。これは特に日常会話によく見られる現象で、理屈からすればこれは前後の文脈から自明の主語を省略しているだけ、と考えていい。文法的にはこの手の文を «不完全文» と呼ぶ。
 しかしここで問題としたいのは、文法上そもそも主語があってはならない文である。これまでに例文として出てきたのが、

  1. 不定人称文
  2. 普遍人称文

のふたつである。この文法用語は覚える必要はないが、文法そのものはきちんと身につけておきたい。

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З01:不定人称文

 すでに何度も確認したことではあるが、ここで再確認しておく。

  1. 主語がない(あってはいけない)。
  2. にもかかわらず述語(動詞)が複数三人称の形をとる。

 これはつまり、主語 они が省略された文、とも考えることができるが、上述のように、単に省略されたわけではなく、文法上あってはいけないのである。
 この手の文は、主語 они が省略された文ではない。だから意味的にも、「かれらが」ではない。すでに述べたように、とりあえず「みんなが」あるいは「誰かが」と考えておくとわかりやすい。

 ただし厳密に(文法的に)言うと、「みんなが」とか「誰かが」ということではなく、そもそも動作主体「誰が」を無視し、動作そのもの、あるいは客体に主眼を置いているのがこの文である。

#161 主体を無視し、動作・客体に主眼を置いた文は «不定人称文» になる。主語がなく、述語は複数三人称。

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 このような言い方ではわかりづらいと思うので、具体的に説明しよう。

Меня́ пригласи́ли к Са́ше.

という文で、пригласить したのが誰か、話し手 я 自身はわかっているはずである。正体不明の人物から招待された、とかいう大昔の子供向けミステリでもない限り、пригласить された本人である я は招待主が誰かを知っている。おそらく Саша 本人だろう。だったら、

Са́ша пригласи́л меня́ к себе́. 「サーシャはぼくを自宅に呼んだ」

と言えばいいのだ。なのになぜそう言わないのか。これは日本語で考えてみよう。

  1. 「ぼくはサーシャの家に呼ばれた」
  2. 「サーシャはぼくを自宅に呼んだ」

このふたつの日本語のニュアンスの違いがわかるだろうか。単純に言えば、このニュアンスの違いがつまり

  1. Меня́ пригласи́ли к Са́ше.
  2. Са́ша пригласи́л меня́ к себе́.

の違いである。
 あるいは日本語の不自由な人もいるかもしれないので、解説しておこう。
 文法的に言うと、1) と 2) の違いは、動作主体が示されているかいないか、という違いである。つまり、1) は、「誰が」はどうでもいい情報だとして切り捨てられた文なのだ。

も同様だ。「誰が」ぼくにこの辞書を薦めてくれたか、「ぼく」自身は知っているはずだ。しかしそれはどうでもいい情報なのである。

では、必ずしも「誰が」は明確ではない。とはいえ、明らかに「建設業者が」であり「雇用主が」である。しかし日本語でも、「建設業者が病院を建てた」などと言う人はいない。

「あの店では店主がブドウを売っている」

という日本語は、誰がどう見ても不自然だ。普通は

「あの店ではブドウを売っている」

である。

「ロシアではクリスマスに何をプレゼントしますか?」

は、「ロシア人たちは」、「ロシア人一般は」である。しかし文頭で「ロシアでは」と言っている以上、そんな情報はどうでもいいのだ。

 ということで繰り返すと、この手の文は、「誰が」はどうでもいい情報だとして切り捨て、それよりも「何をしたか」に主眼を置く。だから主語があってはいけないのである。
 しかし主語がなくとも動詞は主語に応じて語尾を変化させなければならない。仕方がないので複数三人称 они の形にしているだけのことだ。

  1. Меня́ пригласи́ли к Са́ше.
  2. Са́ша пригласи́л меня́ к себе́.

を比べてみればわかるが、主語を入れている 2) では述語動詞はきちんと単数形になっている。だったら 1) の方も пригласили ではなく пригласил にすればいいようなものだが、そうはいかない。言うならば、複数形にすることで「主語はどうでもいい情報ですよ」ということを示しているからだ。
 だから、

のふたつは、文法上も意味上も、また話し手・書き手の意図の面からも、全然違う文である。上の文は、「誰が」がどうでもいい文である。ところが下の文は、たまたま何らかの事情で「誰が」が省略されている文だ。「誰が」はどうでもよくない。重要な情報なのである。読み手・聞き手は、この違いをきちんと理解してあげなくてはならない。

も、「誰が」はどうでもいい情報である。ここでは「みんなが」としたが、あるいはみんなではなく「誰かが」かもしれない。しかもその誰かはたったひとりかもしれない。しかしそれはどうでもいいことであり、大事なのは「(誰かが)かれを愛している」=「かれは愛されている」という1点にある。
 この手の文は「みんなが」、あるいは「誰かが」という意味の文だ、と言ったが、「みんなが」なのか「誰かが」なのかは、それこそどうでもいい情報なのである。

で、говорят しているのが「みんなが」なのか「誰かが」なのか、区別することに意味はない。実際問題として、「みんなが」と言ったところで「ロシア語を知っている人ならみんな」という程度でしかない。しかもロシア人自身は「ロシア語は難しい」などと言わないから(日本人も「日本語は難しい」などと言わない)、「ロシア語を知っている非ロシア人ならみんな」にしかならない。まして

の「みんな」は、「全ロシア人がひとり残らず」などという意味ではない。
 繰り返すが、「誰が」などどうでもいいのである。

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 そして、このように動作主体を無視ないし軽視し、それよりも動作そのもの、あるいは客体(動作の対象)を重視する表現が «受け身» である。だから、この手の文の多くが、日本語では受け身に相当する。

#162 不定人称文は、しばしば «受け身» のニュアンスを表現する。

右と左をよく比較検討してみよう。くどいようだが、「Xが」という動作主体はどうでもいい情報だと判断した結果、左の受け身の文ができている。もちろん、受け身の文でも「誰が」を示すことはできる。

だが、文法的に言えば、「Xに」は文の主成分ではなく二次成分でしかない。重要なのは「殺す(殺される)」という動作と、「かれを(は)」という客体である。だから

など、日本語では受け身で訳したのである。上の受け身の日本文も、いずれもロシア語では次のように訳し得る。

 もっとも、受け身なら何でもこの手の文型になるわけではない。が、それはまた別途。この手の文型の、より詳しい使い方、つくり方なども、ロシア語のさまざまな受け身表現を学ぶ際に改めて確認することにしよう。

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最終更新日 31 08 2015

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