А01:キリール文字
ロシア語で使われている文字は、キリール文字と呼ばれる。ロシア文字と呼ばれることもある。
キリール文字は、ロシア語のほか、ウクライナ語やベラルーシ語、ブルガリア語やセルビア語など、東スラヴと南スラヴの一部の言語で用いられている。ロシア国内の小数民族や、かつてソ連に属した民族の言語でも用いられていることがある。
キリール文字は万国共通ではなく、少なくともロシア語で用いられるキリール文字には、ほかの言語では使われない文字がいくつか存在している。その意味では、ロシア語で用いられるキリール文字を «ロシア文字» と呼んでもいいのか。とはいえ、ロシア語で使われているからという理由でキリール文字をロシア文字と呼ぶのは、英語で使われているラテン文字(ローマ字)を英語文字と呼ぶようなものである。よって当サイトでは、ロシア文字という言葉は使わない。
現代ロシア語で用いられるキリール文字の一覧
ロシア語を学ぶ場合、この、キリール文字という特殊な文字をしっかり覚えることが第一歩となる。
キリール文字は、ラテン文字やひらがな・カタカナと同じように «表音文字» である。ひとつひとつの文字は、本来、たったひとつの音を表す。
たとえば英語では、m という文字は /m/ という音を表す。どんなスペルであってもこれ以外の音を表すことはない。ひらがなの「ま」は、常に /ma/ という音を表す。ところが、英語では p は /p/ という音を表すはずだが、ph というスペルになると /f/ という音になる。a などは、/a/、/æ/、/ʌ/、/ə/、/ei/ 等々、様々な音を表す。日本語でも、「へ」は通常 /he/ という音を表しているが、「西へ」という場合は /e/ という音になる。
このように、長い歴史を経て、ひとつの文字が複数の音を表す現象が、どの言語でも見られるようになった。ロシア語でも同様である。ただしロシア語の場合、英語と違い、どのような場合にどの音になるか、厳格な規則に縛られている。その規則さえ身につけてしまえば、ロシア語は書かれている通りに発音することができる。
まず、キリール文字ひとつひとつの «固有の音» をしっかりと頭に叩き込もう。どのような場合にどのような音になるか、その規則を身につけるのはその後の話である。
発音は IPA(国際発音記号)で表記している(あるいは環境によっては表示されないかもしれない)。いずれも、主な発音だけであるし、一部正確ではない(便宜上類似の発音を表記したものもある)。
なお、筆者はポリシーとして発音をカタカナ表記することはしない。最初なので名称だけはあえてカタカナで表記しておいたが、これ以降は IPA(国際発音記号)かキリール文字によって発音を表現する。
大文字 | 小文字 | 名称 | 固有の音 | 特殊な音 | 分類 | |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | А | а | а アー | a | ə, ɐ, ɪ | 母/硬 |
2 | Б | б | бэ ベー | b | p | 子/硬/有 |
3 | В | в | вэ ヴェー | v | f | 子/硬/有 |
4 | Г | г | гэ ゲー | g | k, x, v | 子/硬/有 |
5 | Д | д | дэ デー | d | t | 子/硬/有 |
6 | Е | е | е イェー | je | ɪ | 母/軟 |
7 | Ё | ё | ё ヨー | jo | 母/軟 | |
8 | Ж | ж | жэ ジェー | ʐ | ȿ | 子/硬/有 |
9 | З | з | зэ ゼー | z | s | 子/硬/有 |
10 | И | и | и イー | i | ɪ | 母/軟 |
11 | Й | й | и краткое イー・クラートコエ | j | 子/軟/有 | |
12 | К | к | ка カー | k | g | 子/硬/無 |
13 | Л | л | эль エリ | l | 子/硬/有 | |
14 | М | м | эм エム | m | 子/硬/有 | |
15 | Н | н | эн エン | n | 子/硬/有 | |
16 | О | о | о オー | o | ə, ɐ | 母/硬 |
17 | П | п | пэ ペー | p | 子/硬/無 | |
18 | Р | р | эр エル | r | 子/硬/有 | |
19 | С | с | эс エス | s | z | 子/硬/無 |
20 | Т | т | тэ テー | t | d | 子/硬/無 |
21 | У | у | у ウー | u | ʊ | 母/硬 |
22 | Ф | ф | эф エフ | f | 子/硬/無 | |
23 | Х | х | ха ハー | x | 子/硬/無 | |
24 | Ц | ц | цэ ツェー | ʦ | 子/硬/無 | |
25 | Ч | ч | че チェー | ʨ | 子/軟/無 | |
26 | Ш | ш | ша シャー | ȿ | 子/硬/無 | |
27 | Щ | щ | ща シシャー | ɕː | 子/軟/無 | |
28 | ъ | твёрдый знак トヴョールドィイ・ズナーク | 硬音記号 | |||
29 | ы | ы ウィ | ɨ | ə | 母/硬 | |
30 | ь | мягкий знак ミャーフキイ・ズナーク | 軟音記号 | |||
31 | Э | э | э エー | ɛ | ə | 母/硬 |
32 | Ю | ю | ю ユー | jʉ | ʊ̈ | 母/軟 |
33 | Я | я | я ヤー | jæ | ɪ | 母/軟 |
少なくとも活字体で、大文字と小文字が異なるのは А а、Б б、Е е、Ё ё、Ф ф の5つだけである(フォントにもよるが)。ただし手書きでは逆に、ほとんどが異なる。
28番目 ъ、29番目 ы、30番目 ь には、大文字がない。これは、この3つの文字が単語の頭に置かれることがない、ということを意味する。つまり、この3つの文字の前には必ず別の文字が存在する、ということである。
オリジナルのキリール文字がいくつあったか、実は判然としない。現在では使われていないものも多いし、逆に近年になって新たにつくられた文字も少なくない。それらは、個々の言語の発音を再現するためにつくられたもので、ゆえに言語ごとに用いられる文字が微妙に異なる。
ロシア語では上掲のように33文字が用いられているが、同じく33文字を用いるウクライナ語には、і や ї、ґ、є という、ロシア語では用いられない文字が存在する。ブルガリア語では1945年の正書法の改訂により30文字が使われる。マケドニア語には s や j という、ラテン文字と同じ文字が存在している。このように、同じくキリール文字と言っても言語ごとに微妙な差異が存在する。
これは、同じくラテン文字と言っても、英語では26文字だが、フランス語では26文字に加えて特殊な18文字が存在しているし、ドイツ語にも特殊な文字が4つあるように、複数の言語で使用される文字では自然なことと言っていい。
キリール文字は、もともといまから1000年前に、まだ異教徒だったスラヴ人にキリスト教を布教するためにつくられた。キュリロス(ロシア語でキリール)とメトディオスという兄弟がつくったものと考えられていたのでキリール文字と呼ばれる。しかし現在では、キュリロスとメトディオスがつくったのはグラゴール文字と呼ばれる別の文字で、キリール文字はおそらくその弟子たちが改良したものだろう、と考えられている。グラゴール文字はいつしか廃れ、キリール文字だけが残った。
キュリロスとメトディオスは、現在のマケドニア辺りに生まれたスラヴ人。ビザンティン帝国(ギリシャ)で学び修道士となった。そのため、キリール文字はスラヴ語を表記するためにつくられたが、ギリシャ正教を受け入れたスラヴ人でだけ用いられる。ローマ・カトリックを受け入れたスラヴ人(チェコ語、ポーランド語など)では、ラテン文字が使われている。
キリール文字を使うのは、基本的に、ロシア語のほか、ウクライナ語、ベラルーシ語、ブルガリア語、マケドニア語、セルビア語、モンテネグロ語、ボスニア語。これに加えて、ソ連による支配の後遺症で、カザフ語、キルギス語、タジク語、モンゴル語、そしてロシア国内の少数民族の言語。
文字の表記
ラテン文字もそうだが、キリール文字もフォントによって大きく形を変えるものがある。とりあえず筆者の手持ちのフォントでどう見えるか、以下に示してみる。
イタリック体
イタリック体を書く、ということはないが、読む際に注意する必要がある。キリール文字をイタリック体にすると、フォントにより微妙な違いもあるが、おおよそ次のようになる。
見ての通り、大文字はそのままだが、小文字の中にはずいぶん姿を変えるものがある。特に、г、д、и、й、п、т には注意する必要がある。これは筆記体の書き方とも関連する問題である。
文字の分類
ロシア語は、音を、硬音 vs 軟音、有声音 vs 無声音というふたつの対立軸で体系化している。そのため、次のように分類して覚えておくと、後々便利である。
母音字
母音を表す文字。ロシア語の母音は日本語と同じ「アイウエオ」の5音だが、それぞれ硬音と軟音とに区別される。
硬母音字 | ア | ★ | ウ | エ | オ |
а | ы | у | э | о | |
軟母音字 | я | и | ю | е | ё |
ヤ | イ | ユ | イェ | ヨ |
★ というのは、日本語にはこの音に対応する文字・発音が存在しないので、とりあえず記号で示しておいた。「ウィ」と表記されることが多いが、/wi/ ではないし、/ui/ でもない。そもそも単独で発音されることがないので、単独の発音がどうなるか考えても無意味である。
子音字
子音を表す文字。有声音と無声音とに区別されるが、対応しているものと対応していないものとがある。対応していないものはとりえあずどうでもいいとして、対応している6ペアについては、対応関係を覚えておく必要がある。
対応あり | 対応なし | ||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
有声子音字 | б | в | г | д | ж | з | й | л | м | н | р | ||||
無声子音字 | п | ф | к | т | ш | с | х | ц | ч | щ |
発音記号
単独では発音されない。子音字に後置されて、直前の子音字の音が硬音であるか軟音であるかを示す。
硬音記号 | ъ |
軟音記号 | ь |
偽キリール文字
ラテン文字圏のポップカルチャーにおいては、キリール文字をラテン文字の代わりに用いる例が見られる。その場合、形の類似を基にしているので、音は無関係である。
RUSSIA ⇒ ЯUSSIA
キリール文字のラテン文字への翻字
文字と発音の関係を確認する一助になると思うので、ここで、キリール文字をラテン文字に翻字する場合に、どの文字をどの文字に置き換えるか、その法則の一覧表を掲げる。
- 学術 : 19世紀以来、言語学を中心とした学術界で伝統的に用いられている翻字法。チェコ語で用いられているラテン文字を使用する。
- ISO 9 : 国際的なスタンダードたるべき翻字法として、国際標準化機構 ISO により、ISO/R 9 の改訂版として1995年に制定された。
- GOST 7.79 : ソ連国家測地・地図作成総局により制定され、ソ連時代のスタンダードとなっていた GOST 16876 を、ISO 9 に基づいて2002年に改正したもの。こんにちのロシアにおける、言わば公的な翻字法。
- ALA-LC : アメリカ図書館連合 ALA と議会図書館 LC とが書籍整理のために開発した方式。1975年に制定され、英語圏の図書館で広く使用されている。
- BGN/PCGN : アメリカの地名委員会 BGN とイギリスの公用地名常任委員会 PCGN とがそれぞれに開発した翻字法を統合したもの。英語圏におけるデファクト・スタンダードになっている。当サイトも、基本的にこの方式に従っている。
学術 | ISO 9 | GOST 7.79 | ALA-LC | BGN/PCGN | |
---|---|---|---|---|---|
а | a | ||||
б | b | ||||
в | v | ||||
г | g | ||||
д | d | ||||
е | e | e/ye | |||
ё | ë | yo | ë | ë/yë | |
ж | ž | zh | |||
з | z | ||||
и | i | ||||
й | j | ï | y | ||
к | k | ||||
л | l | ||||
м | m | ||||
н | n | ||||
о | o | ||||
п | p | ||||
р | r | ||||
с | s | ||||
т | t | ||||
у | u | ||||
ф | f | ||||
х | x | h | x | kh | |
ц | c | cz | ts | ||
ч | č | ch | |||
ш | š | sh | |||
щ | šč | ŝ | shh | shch | |
ъ | '' | ||||
ы | y | y' | y | ||
ь | ' | ||||
э | è | e' | ė | e | |
ю | ju | û | yu | iu | yu |
я | ja | â | ya | ia | ya |
ただし、国際的なスタンダードとしてつくられた「学術方式」と ISO 9 はともかく、ALA-LC と BGN/PCGN は英語への翻字法である。ロシアで制定された GOST 7.79 もその影響を強く受けている。
しかしラテン文字の発音は、言語によって大きく異なる。ゆえに、フランス語では、上掲いずれとも異なる翻字法が一般的である。同じことがドイツ語、イタリア語、スペイン語など、あらゆる言語について言える。
たとえば、ニキータ・ミハルコーフが監督した映画『黒い瞳』は、伊ソ合作であったが、そのタイトルは『Oci ciornie』とされている。これはロシア語の очи чёрные をラテン文字に翻字したものだが、このロシア語は ISO 9 に従えば oči čërnye、ALA-LC・BGN/PCGN に従えば ochi chërnye となるはずである。oci ciornie とは、イタリア語の発音に従った翻字なのである。
ノモンハンで関東軍を撃破したソ連の将軍ジューコフ Жуков は、英語では一般的に BGN/PCGN に従って Zhukov と記されるが、フランス語では Joukov、ドイツ語では Schukow となる。それぞれの言語におけるラテン文字の読み方がわかっている人には何でもないが、知らない人にとっては到底同一人物の名とは思えない。ちなみにフランス語では、同じ「ジューコフ」でも、将軍以外は Joukoff とつづる方が一般的なようだ。
筆者の個人的な経験として、同じユールチェンコ Юрченко という姓のふたりのロシア人が提出した書類に、それぞれ Yurchenko と Iourtchenko というまったく異なるスペルがつづられていたことがある。前者は英語風、後者はフランス語風のスペルである。おそらくドイツ語風のスペルでは Jurtschenko となっていただろう。ちなみに、オリンピックでは英語と並んでフランス語も公用語となっている関係からか、フランス語風の翻字が用いられることが少なくない(そもそもロシアの学校教育は日本のように英語一辺倒ではない)。
このように、キリール文字をラテン文字に翻字する必要が生じた場合には、いかなる言語の話者に読ませようとするのか、に基づいて翻字する必要がある。実は日本語をラテン文字で書く場合にも同じことが言えるのだが、英語漬けにされた日本人はヘボン式で書くことに何の疑問も抱かないらしい。Ichida はフランス人にとっては「石田」なのだが。