ロシア学事始ロシアの君主

ロシア皇族の称号

ツァーリ皇帝
ツァリーツァ皇妃・皇后(ここでは区別しない)
息子ツァレーヴィチ大公
ツァレーヴナ大公女
ツァレーヴナ大公妃

 ここでは1917年の二月革命(帝政の崩壊)までを挙げる。
 なお、以下 «世代» というのは、リューリク家の場合はリューリクを1、ロマーノフ家の場合はミハイール・フョードロヴィチを1として数えたもの。

ツァリーツァ царица

 ツァーリの妃。辞書的にはあるいは «女性のツァーリ» も意味し得るが、現実にはロシアには女性のツァーリは存在しなかった。最初に使われたのはイヴァン雷帝の最初の妃アナスタシーヤ・ロマーノヴナ。
 当然ツァーリが死ねば «前ツァーリの妃» となるわけだが、ロシア語では «現ツァーリの妃(皇后)» と «前ツァーリの妃(皇太后)» とを区別しない。そのため1689-94と1712-15の期間にはツァリーツァが4人もいた。

世代名・父称生没年
11547-6020アナスタシーヤ・ロマーノヴナ・ユーリエヴァ-1560イヴァン雷帝
21561-6920マリーヤ・テムリューコヴナ・チェルカースカヤ公女-1569イヴァン雷帝
3157120マルファ・ヴァシーリエヴナ・ソバーキナ-1571イヴァン雷帝
41572-7420アンナ・イヴァーノヴナ・コルトフスカヤ-1627イヴァン雷帝
5157320マリーヤ・ドルゴルーカヤイヴァン雷帝
61575-?20アンナ・グリゴーリエヴナ・ヴァシーリチコヴァイヴァン雷帝
7?20ヴァシリーサ・メレンティエヴァイヴァン雷帝
81580-84/20マリーヤ・フョードロヴナ・ナガーヤイヴァン雷帝
91584-98/160321イリーナ・フョードロヴナ・ゴドゥノーヴァ-1603フョードル1世
101598-1605マリーヤ・グリゴーリエヴナ・スクラートヴァ-1605ボリース・ゴドゥノーフ
111606/-14マリーナ・ユーリエヴナ・ムニーシェク1588-1614偽ドミートリイ1世
121608-10/2621マリーヤ・ペトローヴナ・ブイノーソヴァ=ロストーフスカヤ-1626ヴァシーリイ4世
131624-251マリーヤ・ヴラディーミロヴナ・ドルゴルーカヤ-1625ミハイール
141626-451エヴドキーヤ・ルキヤーノヴナ・ストレーシュネヴァ1608-45ミハイール
151648-692マリーヤ・イリイーニチナ・ミロスラーフスカヤ1625-69アレクセイ
161671-76/942ナターリヤ・キリーロヴナ・ナルィシュキナ1651-94アレクセイ
171680-813アガーフィヤ・セミョーノヴナ・グルシェツカヤ-1681フョードル3世
181682/-17153マルファ・マトヴェーエヴナ・アプラークシナ1664-1715フョードル3世
191684-96/17233プラスコーヴィヤ・フョードロヴナ・サルトィコーヴァ1664-1723イヴァン5世
201689-98/17313エヴドキーヤ・イラリオーノヴナ・ロプヒナー1669-1731ピョートル1世
211712-213エカテリーナ・アレクセーエヴナ1684-1727ピョートル1世

 イヴァン雷帝の5人目以降の妃については、正式に結婚をしたのか、それとも単に一緒に生活をしていただけなのか不明。

 1721年にピョートル大帝がツァーリに替えて皇帝を使うようになると、妃の称号もツァリーツァから皇妃・皇后に代わったはずだが、当時存命中の元ツァーリの妃プラスコーヴィヤ・サルトィコーヴァは相変わらずツァリーツァと呼ばれ続けた。彼女の夫イヴァン5世がツァーリだったからだろう。
 最後のツァリーツァは、皇帝を名乗る前のピョートル大帝に «離縁» されたエヴドキーヤ・ロプヒナー。

 ちなみに、ポーランドから乗り込んできた偽ドミートリイ1世の妃マリーナを唯一の例外として、ほかにはエカテリーナ・アレクセーエヴナ以前にひとりも外国人がいない。

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ツァレーヴィチ царевич/ツァレーヴナ царевна

 語学的にはツァレーヴィチとは «ツァーリの息子»、ツァレーヴナとは «ツァーリの娘» を表す «父称» であり、そのためツァーリの子はすべからくツァレーヴィチないしツァレーヴナと呼ばれた。称号という意味合いが非常に薄い。
 ただしツァレーヴィチは、17世紀半ば頃からは «皇太子» という意味で限定された使い方もされたようである。また、ツァレーヴィチの妃もツァレーヴナと呼ばれた(実際には結婚したツァレーヴィチは3人しかいなかったが)。
 最初にツァーリを名乗ったのはイヴァン大帝だが、ツァレーヴィチないしツァレーヴナという言葉が最初に使われたのはイヴァン雷帝の子供たち。

世代名・父称生没年
121アンナ・イヴァーノヴナ1549-50イヴァン雷帝
221マリーヤ・イヴァーノヴナ1551-イヴァン雷帝
121ドミートリイ・イヴァーノヴィチ1552-53イヴァン雷帝
221イヴァン・イヴァーノヴィチ1554-82イヴァン雷帝
321エヴドキーヤ・イヴァーノヴナ1556-58イヴァン雷帝
321フョードル・イヴァーノヴィチ(ツァーリ)1557-98イヴァン雷帝
421ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ1563イヴァン雷帝
21エヴドキーヤ・ボグダーノヴナ・サブーロヴァ(イヴァン・イヴァーノヴィチの妃)
21フェオドーシヤ・ミハイロヴナ・ソローヴァヤ-1621(イヴァン・イヴァーノヴィチの妃)
21エレーナ・イヴァーノヴナ・シェレメーティエヴァ(イヴァン・イヴァーノヴィチの妃)
21イリーナ・フョードロヴナ・ゴドゥノーヴァ-1603(フョードル1世の妃)
521ドミートリイ・イヴァーノヴィチ1583-91イヴァン雷帝
422フェオドーシヤ・フョードロヴナ1592-94フョードル1世
5クセーニヤ・ボリーソヴナ1582-1622ボリース・ゴドゥノーフ
6フョードル・ボリーソヴィチ(ツァーリ)1589-1605ボリース・ゴドゥノーフ
622アンナ・ヴァシーリエヴナ1609ヴァシーリイ4世
722アナスタシーヤ・ヴァシーリエヴナ1610ヴァシーリイ4世
82イリーナ・ミハイロヴナ1627-79ミハイール
92ペラゲーヤ・ミハイロヴナ1628-29ミハイール
72アレクセイ・ミハイロヴィチ(ツァーリ)1629-76ミハイール
102アンナ・ミハイロヴナ1630-92ミハイール
112マルファ・ミハイロヴナ1631-32ミハイール
82イヴァン・ミハイロヴィチ1633-39ミハイール
122ソフィヤ・ミハイロヴナ1634-36ミハイール
132タティヤーナ・ミハイロヴナ1636-1706ミハイール
142エヴドキーヤ・ミハイロヴナ1637ミハイール
92ヴァシーリイ・ミハイロヴィチ1639ミハイール
103ドミートリイ・アレクセーエヴィチ1648-49アレクセイ
153エヴドキーヤ・アレクセーエヴナ1650-1712アレクセイ
163マルファ・アレクセーエヴナ1652-1707アレクセイ
113アレクセイ・アレクセーエヴィチ1654-70アレクセイ
173アンナ・アレクセーエヴナ1655-59アレクセイ
183ソフィヤ・アレクセーエヴナ1657-1704アレクセイ
193エカテリーナ・アレクセーエヴナ1658-1718アレクセイ
203マリーヤ・アレクセーエヴナ1660-1723アレクセイ
123フョードル・アレクセーエヴィチ(ツァーリ)1661-82アレクセイ
213フェオドーシヤ・アレクセーエヴナ1662-1713アレクセイ
133シメオン・アレクセーエヴィチ1665-69アレクセイ
143ヨアン・アレクセーエヴィチ(ツァーリ)1666-96アレクセイ
223エヴドキーヤ・アレクセーエヴナ1669アレクセイ
153ピョートル・アレクセーエヴィチ(ツァーリ)1672-1725アレクセイ
233ナターリヤ・アレクセーエヴナ1673-1716アレクセイ
243フェオドーラ・アレクセーエヴナ1674-77アレクセイ
164イリヤー・フョードロヴィチ1681フョードル3世
254マリーヤ・イヴァーノヴナ1689-92イヴァン5世
174アレクセイ・ペトローヴィチ1690-1718ピョートル1世
264フェオドーシヤ・イヴァーノヴナ1690-91イヴァン5世
184アレクサンドル・ペトローヴィチ1691-92ピョートル1世
274エカテリーナ・イヴァーノヴナ1691-1733イヴァン5世
284アンナ・イヴァーノヴナ1693-1740イヴァン5世
194パーヴェル・ペトローヴィチ1693ピョートル1世
294プラスコーヴィヤ・イヴァーノヴナ1694-1731イヴァン5世
304アンナ・ペトローヴナ1708-28ピョートル1世
314エリザヴェータ・ペトローヴナ1709-61ピョートル1世
4ソフィヤ・シャルロッタ1694-1715(皇太子アレクセイの妃)
324ナターリヤ・ペトローヴナ1713-15ピョートル1世
334マルガリータ・ペトローヴナ1714-15ピョートル1世
204ピョートル・ペトローヴィチ1715-19ピョートル1世
214パーヴェル・ペトローヴィチ1717ピョートル1世
344ナターリヤ・ペトローヴナ1718-25ピョートル1世
224ピョートル・ペトローヴィチ1719-23ピョートル1世

 イヴァン5世とピョートル大帝の子の代まで使われた。あるいは皇太子アレクセイ・ペトローヴィチの子供にも使われたのかもしれないが、この点はっきりしない。
 ナンバー23:アンナ・ペトローヴナ、24:エリザヴェータ・ペトローヴナ、27:ナターリヤ・ペトローヴナの3人は、のちにツェサレーヴナの称号を与えられている(下記参照)。

 ツァレーヴィチの妃としてツァレーヴナとなったのは以下の5人のみ。
 イヴァン雷帝の嫡男イヴァン・イヴァーノヴィチの最初の妃エヴドキーヤは、1571年に結婚したが、子を生さなかったため1572年に修道院に押し込められた。次の妃フェオドーシヤは1575年に結婚したが、これまた1579年に離縁され、修道院に押し込められた。三人目の妃エレーナは1581年に結婚。妊娠中の1582年、夫を失った。
 フョードル・イヴァーノヴィチの妃イリーナは1580年に結婚。夫がツァーリになると同時にツァリーツァとなった。
 ピョートル大帝の皇太子アレクセイの妃ソフィヤ・シャルロッタは1711年にアレクセイと結婚した。

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女帝/皇后/皇太后 императрица

 女帝とは «女性の皇帝»、皇后とは «皇帝の妃»、皇太后とは «前皇帝の未亡人» を意味する。しかしロシア語にはこの3つの区別はない。強いて区別する場合、女帝には царствующая (君臨している)、皇太后には вдовствующая (未亡人となった)という形容詞をつけることもある(公的なものではない)。
 1721年、ピョートル大帝が皇帝を名乗り、自動的にその妃であったエカテリーナ・アレクセーエヴナが最初の императрица(この場合は皇后)となった。1725年には彼女自身が即位し、最初の女帝にもなったわけだ。
 以後、アンナ・イヴァーノヴナとエリザヴェータ・ペトローヴナはともに女帝として即位。
 ふたり目のエカテリーナ・アレクセーエヴナは初代に続いてふたり目の皇后となり、引き続き4人目の女帝となった。

世代名・父称生没年
11721-273エカテリーナ・アレクセーエヴナ(女帝1世)1684-1727ピョートル1世大帝
21730-404アンナ・イヴァーノヴナ(女帝)1693-1740
31741-614エリザヴェータ・ペトローヴナ(女帝)1709-61
41761-965エカテリーナ・アレクセーエヴナ(女帝2世)1729-96ピョートル3世
51796-18286マリーヤ・フョードロヴナ1759-1828パーヴェル1世
61801-267エリザヴェータ・アレクセーエヴナ1779-1826アレクサンドル1世
71825-607アレクサンドラ・フョードロヴナ1798-1860ニコライ1世
81855-808マリーヤ・アレクサンドロヴナ1824-80アレクサンドル2世
91881-19179マリーヤ・フョードロヴナ1847-1928アレクサンドル3世
101896-191710アレクサンドラ・フョードロヴナ1872-1918ニコライ2世

 アンナ・イヴァーノヴナとエリザヴェータ・ペトローヴナははなから «女帝» として императрица になったが、それ以外はすべて «皇后» として императрица になった。その場合、最後のアレクサンドラ・フョードロヴナを除き、すべて夫が皇帝になると同時に «皇后» となっている。夫が皇帝となった後に «皇后» となったのはアレクサンドラ・フョードロヴナのみ(それ以外は夫が皇帝として即位する前に結婚している)。

 ツァーリ/皇帝の娘として императрица(この場合は «女帝»)となったアンナとエリザヴェータを除き、あとはすべて外国人というのは、ツァリーツァとはっきり対照的でおもしろい。

 ロシア宮廷は特殊で、皇太后が皇后に優先する。つまりマリーヤ・フョードロヴナ以来、皇后は6人いるが、ファーストレディはふたり少なく、マリーヤ・フョードロヴナ(1796-1828)、アレクサンドラ・フョードロヴナ(1828-60)、マリーヤ・アレクサンドロヴナ(1860-80)、マリーヤ・フョードロヴナ(1881-1917)の4人だけ。

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ツェサレーヴナ цесаревна

 1721年、皇帝を名乗ったピョートル大帝は、自分の娘の称号をそれまでのツァレーヴナからツェサレーヴナに変えた。
 しかしこの慣習はすぐに廃れる(そもそも歴代皇帝に娘が生まれなかった)。
 1797年、皇帝パーヴェルの勅令によりツェサレーヴナはツェサレーヴィチの妃に与えられる称号として復活。ただしツェサレーヴィチは同時に大公でもあり、ツェサレーヴナも同時に大公妃の称号を帯びた。実際、歴代ツェサレーヴナはこの称号では呼ばれない(«大公妃» と呼ばれた)。

世代名・父称生没年父/夫
11721-284アンナ・ペトローヴナ1708-28ピョートル1世大帝の娘
21721-414エリザヴェータ・ペトローヴナ1709-61ピョートル1世大帝の娘
31721-254ナターリヤ・ペトローヴナ1718-25ピョートル1世大帝の娘
41797-18017エリザヴェータ・アレクセーエヴナ1779-1826アレクサンドル1世の妃
51799-18207アンナ・フョードロヴナ1781-1860コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公の妃
61841-558マリーヤ・アレクサンドロヴナ1824-80アレクサンドル2世の妃
71866-819マリーヤ・フョードロヴナ1847-1928アレクサンドル3世の妃

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ツェサレーヴィチ цесаревич

 1721年にピョートル大帝がつくり出したツェサレーヴナにちなんで、エカテリーナ2世によってつくられた。事実上皇太子という意味。
 1797年、皇帝パーヴェルの勅令によってこの称号は正式なものとなる。以後、歴代の第一皇位継承権者(皇太子、皇太弟)がこの称号を帯び、革命まで常に途切れることなく1名、この称号を有する人間がいた。正式な称号は Государь Наследник Цесаревич である。
 ちなみに、ツェサレーヴィチという称号を与えられても、皇帝の息子として生得の大公という称号が剥奪されるわけではない。むしろツェサレーヴィチよりも大公と呼ばれるのが一般的。

世代名・父称生没年
11762-966パーヴェル・ペトローヴィチ(皇帝)1754-1801ピョートル3世
21796-18017アレクサンドル・パーヴロヴィチ(皇帝1世)1777-1825パーヴェル
31799-18317コンスタンティーン・パーヴロヴィチ1779-1831パーヴェル
41825-558アレクサンドル・ニコラーエヴィチ(皇帝2世)1818-81ニコライ1世
51855-659ニコライ・アレクサンドロヴィチ1843-65アレクサンドル2世
61865-819アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ(皇帝3世)1845-94アレクサンドル2世
71881-9410ニコライ・アレクサンドロヴィチ(皇帝2世)1868-1918アレクサンドル3世
81894-9910ゲオルギイ・アレクサンドロヴィチ1871-99アレクサンドル3世
91899-190410ミハイール・アレクサンドロヴィチ1878-1918アレクサンドル3世
101904-1711アレクセイ・ニコラーエヴィチ1904-18ニコライ2世

 一時期のコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公は唯一の例外。
 実際にかれが皇位継承順位第一位だったのは1801年から1825年まで。それ以前は兄アレクサンドル(1世)が、以後は甥アレクサンドル(2世)が皇位継承順位第一位のツェサレーヴィチ。しかも1820年には貴賤結婚に際して皇位継承権を放棄している。
 そのせいか、かれの称号は Государь Наследник Цесаревич ではなく、単なる Цесаревич であった。

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大公 великий князь/大公女 великая княжна

 元来 «大公» とは、キエフ大公以来、キエフ・ルーシからモスクワ・ロシアにかけて最高権力者の称号であった。イヴァン雷帝がツァーリとして戴冠して以来その影に隠れてしまったが、なくなったわけではない。
 ピョートル大帝の時代まで、ツァーリに孫が生まれるということがなかった。ツァーリの子はツァレーヴィチ/ツァレーヴナだが、では孫は何と呼ばれるのか。史料の記述がまちまちではっきりしないが、おそらくピョートル大帝の孫ピョートル2世が、ツァーリ・皇帝以外で最初に大公の称号を帯びたものと思われる。
 ただし、«大公の娘» を意味する大公女の称号はすでに古くから使用されていた。しかし当然、ツァーリの称号が現れてからは使われなくなっていた。
 1797年、皇帝パーヴェルの勅令により、皇帝の男系子孫全員に大公/大公女の称号が与えられることになった。ただし、貴賤結婚および皇帝の承認を得ない結婚から生まれた者には与えられない。
 1886年、皇帝アレクサンドル3世の勅令により、皇帝の子と内孫とに範囲が限定された。
 ちなみに外国語では «ロシア大公»、«Grand duke of Russia» などと訳されるが、ロシア語では単に великий князь。

世代名・父称生没年
15ナターリヤ・アレクセーエヴナ1714-28アレクセイ・ペトローヴィチ
15ピョートル・アレクセーエヴィチ(皇帝2世)1715-30アレクセイ・ペトローヴィチ
26イヴァン・アントーノヴィチ(皇帝6世)1740-64
35ピョートル・フョードロヴィチ(皇帝3世)1728-62※1742より
46パーヴェル・ペトローヴィチ(皇帝)1754-1801皇帝ピョートル3世
26アンナ・ペトローヴナ1757-59皇帝ピョートル3世
57アレクサンドル・パーヴロヴィチ(皇帝1世)1777-1825皇帝パーヴェル
67コンスタンティーン・パーヴロヴィチ1779-1831皇帝パーヴェル
37アレクサンドラ・パーヴロヴナ1783-1801皇帝パーヴェル
47エレーナ・パーヴロヴナ1784-1803皇帝パーヴェル
57マリーヤ・パーヴロヴナ1786-1859皇帝パーヴェル
67エカテリーナ・パーヴロヴナ1788-1818皇帝パーヴェル
77オリガ・パーヴロヴナ1792-95皇帝パーヴェル
87アンナ・パーヴロヴナ1795-1865皇帝パーヴェル
77ニコライ・パーヴロヴィチ(皇帝1世)1796-1855皇帝パーヴェル
87ミハイール・パーヴロヴィチ1798-1849皇帝パーヴェル
98マリーヤ・アレクサンドロヴナ1799-1800皇帝アレクサンドル1世
108エリザヴェータ・アレクサンドロヴナ1806-08皇帝アレクサンドル1世
98アレクサンドル・ニコラーエヴィチ(皇帝2世)1818-81皇帝ニコライ1世
118マリーヤ・ニコラーエヴナ1819-76皇帝ニコライ1世
128オリガ・ニコラーエヴナ1822-92皇帝ニコライ1世
138マリーヤ・ミハイロヴナ1825-46ミハイール・パーヴロヴィチ大公
148アレクサンドラ・ニコラーエヴナ1825-44皇帝ニコライ1世
158エリザヴェータ・ミハイロヴナ1826-45ミハイール・パーヴロヴィチ大公
168エリザヴェータ・ニコラーエヴナ1826皇帝ニコライ1世
178エカテリーナ・ミハイロヴナ1827-94ミハイール・パーヴロヴィチ大公
108コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ1827-92皇帝ニコライ1世
188アレクサンドラ・ミハイロヴナ1831-32ミハイール・パーヴロヴィチ大公
118ニコライ・ニコラーエヴィチ1831-91皇帝ニコライ1世
128ミハイール・ニコラーエヴィチ1832-1909皇帝ニコライ1世
198アンナ・ミハイロヴナ1834-36ミハイール・パーヴロヴィチ大公
209アレクサンドラ・アレクサンドロヴナ1842-49皇帝アレクサンドル2世
139ニコライ・アレクサンドロヴィチ1843-65皇帝アレクサンドル2世
149アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ(皇帝3世)1845-94皇帝アレクサンドル2世
159ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ1847-1909皇帝アレクサンドル2世
169アレクセイ・アレクサンドロヴィチ1850-1908皇帝アレクサンドル2世
179ニコライ・コンスタンティーノヴィチ1850-1918コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公
219オリガ・コンスタンティーノヴナ1851-1926コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公
229マリーヤ・アレクサンドロヴナ1853-1920皇帝アレクサンドル2世
239ヴェーラ・コンスタンティーノヴナ1854-1912コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公
189ニコライ・ニコラーエヴィチ1856-1929ニコライ・ニコラーエヴィチ大公
199セルゲイ・アレクサンドロヴィチ1857-1905皇帝アレクサンドル2世
209コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ1858-1915コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公
219ニコライ・ミハイロヴィチ1859-1919ミハイール・ニコラーエヴィチ大公
229ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ1860-1919コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公
249アナスタシーヤ・ミハイロヴナ1860-1922ミハイール・ニコラーエヴィチ大公
239パーヴェル・アレクサンドロヴィチ1860-1919皇帝アレクサンドル2世
249ミハイール・ミハイロヴィチ1861-1929ミハイール・ニコラーエヴィチ大公
259ヴャチェスラーフ・コンスタンティーノヴィチ1862-79コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公
269ゲオルギイ・ミハイロヴィチ1863-1919ミハイール・ニコラーエヴィチ大公
279ピョートル・ニコラーエヴィチ1864-1931ニコライ・ニコラーエヴィチ大公
289アレクサンドル・ミハイロヴィチ1866-1933ミハイール・ニコラーエヴィチ大公
2910ニコライ・アレクサンドロヴィチ(皇帝2世)1868-1918皇帝アレクサンドル3世
3010アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ1869-70皇帝アレクサンドル3世
319セルゲイ・ミハイロヴィチ1869-1918ミハイール・ニコラーエヴィチ大公
3210ゲオルギイ・アレクサンドロヴィチ1871-99皇帝アレクサンドル3世
2510クセーニヤ・アレクサンドロヴナ1875-1960皇帝アレクサンドル3世
3310アレクサンドル・ヴラディーミロヴィチ1875-77ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公
349アレクセイ・ミハイロヴィチ1875-95ミハイール・ニコラーエヴィチ大公
3510キリール・ヴラディーミロヴィチ1876-1938ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公
3610ボリース・ヴラディーミロヴィチ1877-1943ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公
3710ミハイール・アレクサンドロヴィチ1878-1918皇帝アレクサンドル3世
3810アンドレイ・ヴラディーミロヴィチ1879-1956ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公
2610オリガ・アレクサンドロヴナ1882-1960皇帝アレクサンドル3世
2710エレーナ・ヴラディーミロヴナ1882-1957ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公
3910ヨアン・コンスタンティーノヴィチ※1886-1918コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ
2810マリーヤ・パーヴロヴナ1890-1958パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公
4010ドミートリイ・パーヴロヴィチ1891-1942パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公
2911オリガ・ニコラーエヴナ1895-1918皇帝ニコライ2世
3011タティヤーナ・ニコラーエヴナ1897-1918皇帝ニコライ2世
3111マリーヤ・ニコラーエヴナ1899-1918皇帝ニコライ2世
3211アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ1901-18皇帝ニコライ2世
4111アレクセイ・ニコラーエヴィチ1904-18皇帝ニコライ2世

 原則誕生と共に与えられ、死ぬまでこの称号を帯びる。ただし皇帝になればこの称号はその他の称号に埋もれてしまう。
 例外はナンバー3:ピョートル・フョードロヴィチ(1742年に与えられる)、ナンバー39:ヨアン・コンスタンティーノヴィチ(1886年、誕生直後に剥奪される)。

 ちなみに、もし帝政が続いていたら、第11世代目にして大公はゼロになっていた(アレクセイ・ニコラーエヴィチは皇太子だからいずれは皇帝となったはず)。

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大公妃 великая княгиня

 大公の妃。ただし、君主の家系の出であり、結婚自体も皇帝の承認を得たものでなければならない。
 イヴァン雷帝以前を別とすれば、最初に使われたのは皇太子妃時代のエカテリーナ2世である。

世代名・父称生没年
11745-615エカテリーナ・アレクセーエヴナ1729-96ピョートル・フョードロヴィチ(皇帝3世)
21773-766ナターリヤ・アレクセーエヴナ1755-76パーヴェル・ペトローヴィチ(皇帝)
31776-966マリーヤ・フョードロヴナ1759-1828パーヴェル・ペトローヴィチ(皇帝)
41793-18017エリザヴェータ・アレクセーエヴナ1779-1826アレクサンドル・パーヴロヴィチ(皇帝1世)
51796-18607アンナ・フョードロヴナ1781-1860コンスタンティーン・パーヴロヴィチ
61817-257アレクサンドラ・フョードロヴナ1798-1860ニコライ・パーヴロヴィチ(皇帝1世)
71824-737エレーナ・パーヴロヴナ1807-73ミハイール・パーヴロヴィチ
81841-558マリーヤ・アレクサンドロヴナ1824-80アレクサンドル・ニコラーエヴィチ(皇帝2世)
91848-19118アレクサンドラ・イオシフォヴナ1830-1911コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ
101856-19008アレクサンドラ・ペトローヴナ1838-1900ニコライ・ニコラーエヴィチ
111857-918オリガ・フョードロヴナ1839-91ミハイール・ニコラーエヴィチ
121866-819マリーヤ・フョードロヴナ1847-1928アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ(皇帝3世)
131874-19179マリーヤ・パーヴロヴナ1854-1923ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ
141884-19179エリザヴェータ・マヴリーキエヴナ1865-1927コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ
151884-19179エリザヴェータ・フョードロヴナ1864-1918セルゲイ・アレクサンドロヴィチ
161889-919アレクサンドラ・ゲオルギエヴナ1870-91パーヴェル・アレクサンドロヴィチ
171889-19179ミリツァ・ニコラーエヴナ1866-1951ピョートル・ニコラーエヴィチ
181894-19179/10クセーニヤ・アレクサンドロヴナ1875-1960アレクサンドル・ミハイロヴィチ
191900-179マリーヤ・ゲオルギエヴナ1876-1940ゲオルギイ・ミハイロヴィチ
201907-179アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ1868-1935ニコライ・ニコラーエヴィチ
211907-1710ヴィクトリヤ・フョードロヴナ1876-1936キリール・ヴラディーミロヴィチ

 原則として大公との婚約、あるいは結婚に際して与えられる。夫が死んでも大公妃の称号はそのまま残るが、夫が皇帝になればとうぜん大公妃ではなく皇妃になる。
 例外はナンバー5:アンナ・フョードロヴナ(1820年離婚した。ただし大公妃の称号は保持することが認められた)、ナンバー21:ヴィクトリヤ・フョードロヴナ(結婚は1905年)。

 この中で例外的な存在がナンバー18:クセーニヤ・アレクサンドロヴナ。彼女だけがロシア人で、あとは全員外国人(ほぼドイツ人)。彼女はまたロマーノフ家の女性でもあり、大公妃であると同時に大公女でもある。
 なお、第10世代目に属するのがヴィクトリヤ・フョードロヴナだけというのは、この世代(以降)がイレギュラーな結婚ばかりだったことを物語っている。

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公 князь/公女 княжна

 正式には、«皇帝の血の公 князь императорской крови» であり «皇帝の血の公女 княжна императорской крови»。おそらくフランスの prince du sang を翻案したものだろう。
 1886年、皇帝アレクサンドル3世の勅令により、大公/大公女の称号が皇帝の子および内孫にのみ限定されることになった結果、代わりに与えられることになった。

世代名・父称生没年
110ヨアン・コンスタンティーノヴィチ1886-1918コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公
210ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ1887-1955コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公
110タティヤーナ・コンスタンティーノヴナ1890-1970コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公
310コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ1890-1918コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公
210マリーナ・ペトローヴナ1892-1981ピョートル・ニコラーエヴィチ大公
410オレーグ・コンスタンティーノヴィチ1892-1914コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公
510イーゴリ・コンスタンティーノヴィチ1894-1918コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公
310イリーナ・アレクサンドロヴィチ1895-1970アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公
610ロマーン・ペトローヴィチ1896-1978ピョートル・ニコラーエヴィチ大公
710アンドレイ・アレクサンドロヴィチ1897-1981アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公
410ナデージュダ・ペトローヴナ1898-1988ピョートル・ニコラーエヴィチ大公
510ソフィヤ・ペトローヴナ1898ピョートル・ニコラーエヴィチ大公
810フョードル・アレクサンドロヴィチ1898-1968アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公
910ニキータ・アレクサンドロヴィチ1900-74アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公
610ニーナ・ゲオルギエヴナ1901-74ゲオルギイ・ミハイロヴィチ大公
1010ドミートリイ・アレクサンドロヴィチ1901-80アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公
1110ロスティスラーフ・アレクサンドロヴィチ1902-78アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公
1210ゲオルギイ・コンスタンティーノヴィチ1903-38コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公
710クセーニヤ・ゲオルギエヴナ1903-65ゲオルギイ・ミハイロヴィチ大公
810ナターリヤ・コンスタンティーノヴナ1905コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公
910ヴェーラ・コンスタンティーノヴナ1906-2001コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公
1011マリーヤ・キリーロヴナ1907-51キリール・ヴラディーミロヴィチ大公
1310ヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチ1907-89アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公
1111キーラ・キリーロヴナ1909-67キリール・ヴラディーミロヴィチ大公
1411ヴラディーミル・キリーロヴィチ1917-92キリール・ヴラディーミロヴィチ大公

 大公/大公女と同様、原則として誕生と共に与えられ、死ぬまでこの称号を帯びる。
 例外はナンバー1:ヨアン・コンスタンティーノヴィチ(生まれた時は大公だったが、その直後にアレクサンドル3世の勅令が出て公に «格下げ» された)。
 なお、最後のヴラディーミル・キリーロヴィチは1917年の革命後に生まれた。

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公妃 княгиня

 公の妃。ただし、君主の家系の出であり、結婚自体も皇帝の承認を得たものでなければならない。

世代名・父称生没年
11911-1710エレーナ・ペトローヴナ1884-1962ヨアン・コンスタンティーノヴィチ

 これ以外の公の妃は全員貴賤結婚。そもそも革命後の結婚。

 なお、皇族の称号とは無縁だが、公の妃ではなく «女性の公» もまたロシア語では княгиня となる。
 ロマーノフ家関連で例を挙げると、エカテリーナ・ドルゴルーカヤやオリガ・カルノーヴィチは княгиня という称号を与えられた。ふたりとも、自分自身の権利として княгиня の称号を有したわけである。
 ふたりの夫はいずれも公ではない(前者は皇帝、後者は大公)。ゆえに彼女らを «公妃» と呼ぶのはおかしいのだが、日本語では «女公爵» というのも少々おかしいので、ここでは便宜上 «公妃» と訳しておく。

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最終更新日 17 01 2013

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