ツァーリ | 皇帝 | |
妃 | ツァリーツァ | 皇妃・皇后(ここでは区別しない) |
息子 | ツァレーヴィチ | 大公 |
娘 | ツァレーヴナ | 大公女 |
嫁 | ツァレーヴナ | 大公妃 |
ここでは1917年の二月革命(帝政の崩壊)までを挙げる。
なお、以下 «世代» というのは、リューリク家の場合はリューリクを1、ロマーノフ家の場合はミハイール・フョードロヴィチを1として数えたもの。
ツァリーツァ царица
ツァーリの妃。辞書的にはあるいは «女性のツァーリ» も意味し得るが、現実にはロシアには女性のツァーリは存在しなかった。最初に使われたのはイヴァン雷帝の最初の妃アナスタシーヤ・ロマーノヴナ。
当然ツァーリが死ねば «前ツァーリの妃» となるわけだが、ロシア語では «現ツァーリの妃(皇后)» と «前ツァーリの妃(皇太后)» とを区別しない。そのため1689-94と1712-15の期間にはツァリーツァが4人もいた。
世代 | 名・父称 | 生没年 | 夫 | ||
---|---|---|---|---|---|
1 | 1547-60 | 20 | アナスタシーヤ・ロマーノヴナ・ユーリエヴァ | -1560 | イヴァン雷帝 |
2 | 1561-69 | 20 | マリーヤ・テムリューコヴナ・チェルカースカヤ公女 | -1569 | イヴァン雷帝 |
3 | 1571 | 20 | マルファ・ヴァシーリエヴナ・ソバーキナ | -1571 | イヴァン雷帝 |
4 | 1572-74 | 20 | アンナ・イヴァーノヴナ・コルトフスカヤ | -1627 | イヴァン雷帝 |
5 | 1573 | 20 | マリーヤ・ドルゴルーカヤ | イヴァン雷帝 | |
6 | 1575-? | 20 | アンナ・グリゴーリエヴナ・ヴァシーリチコヴァ | イヴァン雷帝 | |
7 | ? | 20 | ヴァシリーサ・メレンティエヴァ | イヴァン雷帝 | |
8 | 1580-84/ | 20 | マリーヤ・フョードロヴナ・ナガーヤ | イヴァン雷帝 | |
9 | 1584-98/1603 | 21 | イリーナ・フョードロヴナ・ゴドゥノーヴァ | -1603 | フョードル1世 |
10 | 1598-1605 | マリーヤ・グリゴーリエヴナ・スクラートヴァ | -1605 | ボリース・ゴドゥノーフ | |
11 | 1606/-14 | マリーナ・ユーリエヴナ・ムニーシェク | 1588-1614 | 偽ドミートリイ1世 | |
12 | 1608-10/26 | 21 | マリーヤ・ペトローヴナ・ブイノーソヴァ=ロストーフスカヤ | -1626 | ヴァシーリイ4世 |
13 | 1624-25 | 1 | マリーヤ・ヴラディーミロヴナ・ドルゴルーカヤ | -1625 | ミハイール |
14 | 1626-45 | 1 | エヴドキーヤ・ルキヤーノヴナ・ストレーシュネヴァ | 1608-45 | ミハイール |
15 | 1648-69 | 2 | マリーヤ・イリイーニチナ・ミロスラーフスカヤ | 1625-69 | アレクセイ |
16 | 1671-76/94 | 2 | ナターリヤ・キリーロヴナ・ナルィシュキナ | 1651-94 | アレクセイ |
17 | 1680-81 | 3 | アガーフィヤ・セミョーノヴナ・グルシェツカヤ | -1681 | フョードル3世 |
18 | 1682/-1715 | 3 | マルファ・マトヴェーエヴナ・アプラークシナ | 1664-1715 | フョードル3世 |
19 | 1684-96/1723 | 3 | プラスコーヴィヤ・フョードロヴナ・サルトィコーヴァ | 1664-1723 | イヴァン5世 |
20 | 1689-98/1731 | 3 | エヴドキーヤ・イラリオーノヴナ・ロプヒナー | 1669-1731 | ピョートル1世 |
21 | 1712-21 | 3 | エカテリーナ・アレクセーエヴナ | 1684-1727 | ピョートル1世 |
イヴァン雷帝の5人目以降の妃については、正式に結婚をしたのか、それとも単に一緒に生活をしていただけなのか不明。
1721年にピョートル大帝がツァーリに替えて皇帝を使うようになると、妃の称号もツァリーツァから皇妃・皇后に代わったはずだが、当時存命中の元ツァーリの妃プラスコーヴィヤ・サルトィコーヴァは相変わらずツァリーツァと呼ばれ続けた。彼女の夫イヴァン5世がツァーリだったからだろう。
最後のツァリーツァは、皇帝を名乗る前のピョートル大帝に «離縁» されたエヴドキーヤ・ロプヒナー。
ちなみに、ポーランドから乗り込んできた偽ドミートリイ1世の妃マリーナを唯一の例外として、ほかにはエカテリーナ・アレクセーエヴナ以前にひとりも外国人がいない。
ツァレーヴィチ царевич/ツァレーヴナ царевна
語学的にはツァレーヴィチとは «ツァーリの息子»、ツァレーヴナとは «ツァーリの娘» を表す «父称» であり、そのためツァーリの子はすべからくツァレーヴィチないしツァレーヴナと呼ばれた。称号という意味合いが非常に薄い。
ただしツァレーヴィチは、17世紀半ば頃からは «皇太子» という意味で限定された使い方もされたようである。また、ツァレーヴィチの妃もツァレーヴナと呼ばれた(実際には結婚したツァレーヴィチは3人しかいなかったが)。
最初にツァーリを名乗ったのはイヴァン大帝だが、ツァレーヴィチないしツァレーヴナという言葉が最初に使われたのはイヴァン雷帝の子供たち。
世代 | 名・父称 | 生没年 | 父 | |
---|---|---|---|---|
1 | 21 | アンナ・イヴァーノヴナ | 1549-50 | イヴァン雷帝 |
2 | 21 | マリーヤ・イヴァーノヴナ | 1551- | イヴァン雷帝 |
1 | 21 | ドミートリイ・イヴァーノヴィチ | 1552-53 | イヴァン雷帝 |
2 | 21 | イヴァン・イヴァーノヴィチ | 1554-82 | イヴァン雷帝 |
3 | 21 | エヴドキーヤ・イヴァーノヴナ | 1556-58 | イヴァン雷帝 |
3 | 21 | フョードル・イヴァーノヴィチ(ツァーリ) | 1557-98 | イヴァン雷帝 |
4 | 21 | ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ | 1563 | イヴァン雷帝 |
21 | エヴドキーヤ・ボグダーノヴナ・サブーロヴァ | (イヴァン・イヴァーノヴィチの妃) | ||
21 | フェオドーシヤ・ミハイロヴナ・ソローヴァヤ | -1621 | (イヴァン・イヴァーノヴィチの妃) | |
21 | エレーナ・イヴァーノヴナ・シェレメーティエヴァ | (イヴァン・イヴァーノヴィチの妃) | ||
21 | イリーナ・フョードロヴナ・ゴドゥノーヴァ | -1603 | (フョードル1世の妃) | |
5 | 21 | ドミートリイ・イヴァーノヴィチ | 1583-91 | イヴァン雷帝 |
4 | 22 | フェオドーシヤ・フョードロヴナ | 1592-94 | フョードル1世 |
5 | クセーニヤ・ボリーソヴナ | 1582-1622 | ボリース・ゴドゥノーフ | |
6 | フョードル・ボリーソヴィチ(ツァーリ) | 1589-1605 | ボリース・ゴドゥノーフ | |
6 | 22 | アンナ・ヴァシーリエヴナ | 1609 | ヴァシーリイ4世 |
7 | 22 | アナスタシーヤ・ヴァシーリエヴナ | 1610 | ヴァシーリイ4世 |
8 | 2 | イリーナ・ミハイロヴナ | 1627-79 | ミハイール |
9 | 2 | ペラゲーヤ・ミハイロヴナ | 1628-29 | ミハイール |
7 | 2 | アレクセイ・ミハイロヴィチ(ツァーリ) | 1629-76 | ミハイール |
10 | 2 | アンナ・ミハイロヴナ | 1630-92 | ミハイール |
11 | 2 | マルファ・ミハイロヴナ | 1631-32 | ミハイール |
8 | 2 | イヴァン・ミハイロヴィチ | 1633-39 | ミハイール |
12 | 2 | ソフィヤ・ミハイロヴナ | 1634-36 | ミハイール |
13 | 2 | タティヤーナ・ミハイロヴナ | 1636-1706 | ミハイール |
14 | 2 | エヴドキーヤ・ミハイロヴナ | 1637 | ミハイール |
9 | 2 | ヴァシーリイ・ミハイロヴィチ | 1639 | ミハイール |
10 | 3 | ドミートリイ・アレクセーエヴィチ | 1648-49 | アレクセイ |
15 | 3 | エヴドキーヤ・アレクセーエヴナ | 1650-1712 | アレクセイ |
16 | 3 | マルファ・アレクセーエヴナ | 1652-1707 | アレクセイ |
11 | 3 | アレクセイ・アレクセーエヴィチ | 1654-70 | アレクセイ |
17 | 3 | アンナ・アレクセーエヴナ | 1655-59 | アレクセイ |
18 | 3 | ソフィヤ・アレクセーエヴナ | 1657-1704 | アレクセイ |
19 | 3 | エカテリーナ・アレクセーエヴナ | 1658-1718 | アレクセイ |
20 | 3 | マリーヤ・アレクセーエヴナ | 1660-1723 | アレクセイ |
12 | 3 | フョードル・アレクセーエヴィチ(ツァーリ) | 1661-82 | アレクセイ |
21 | 3 | フェオドーシヤ・アレクセーエヴナ | 1662-1713 | アレクセイ |
13 | 3 | シメオン・アレクセーエヴィチ | 1665-69 | アレクセイ |
14 | 3 | ヨアン・アレクセーエヴィチ(ツァーリ) | 1666-96 | アレクセイ |
22 | 3 | エヴドキーヤ・アレクセーエヴナ | 1669 | アレクセイ |
15 | 3 | ピョートル・アレクセーエヴィチ(ツァーリ) | 1672-1725 | アレクセイ |
23 | 3 | ナターリヤ・アレクセーエヴナ | 1673-1716 | アレクセイ |
24 | 3 | フェオドーラ・アレクセーエヴナ | 1674-77 | アレクセイ |
16 | 4 | イリヤー・フョードロヴィチ | 1681 | フョードル3世 |
25 | 4 | マリーヤ・イヴァーノヴナ | 1689-92 | イヴァン5世 |
17 | 4 | アレクセイ・ペトローヴィチ | 1690-1718 | ピョートル1世 |
26 | 4 | フェオドーシヤ・イヴァーノヴナ | 1690-91 | イヴァン5世 |
18 | 4 | アレクサンドル・ペトローヴィチ | 1691-92 | ピョートル1世 |
27 | 4 | エカテリーナ・イヴァーノヴナ | 1691-1733 | イヴァン5世 |
28 | 4 | アンナ・イヴァーノヴナ | 1693-1740 | イヴァン5世 |
19 | 4 | パーヴェル・ペトローヴィチ | 1693 | ピョートル1世 |
29 | 4 | プラスコーヴィヤ・イヴァーノヴナ | 1694-1731 | イヴァン5世 |
30 | 4 | アンナ・ペトローヴナ | 1708-28 | ピョートル1世 |
31 | 4 | エリザヴェータ・ペトローヴナ | 1709-61 | ピョートル1世 |
4 | ソフィヤ・シャルロッタ | 1694-1715 | (皇太子アレクセイの妃) | |
32 | 4 | ナターリヤ・ペトローヴナ | 1713-15 | ピョートル1世 |
33 | 4 | マルガリータ・ペトローヴナ | 1714-15 | ピョートル1世 |
20 | 4 | ピョートル・ペトローヴィチ | 1715-19 | ピョートル1世 |
21 | 4 | パーヴェル・ペトローヴィチ | 1717 | ピョートル1世 |
34 | 4 | ナターリヤ・ペトローヴナ | 1718-25 | ピョートル1世 |
22 | 4 | ピョートル・ペトローヴィチ | 1719-23 | ピョートル1世 |
イヴァン5世とピョートル大帝の子の代まで使われた。あるいは皇太子アレクセイ・ペトローヴィチの子供にも使われたのかもしれないが、この点はっきりしない。
ナンバー23:アンナ・ペトローヴナ、24:エリザヴェータ・ペトローヴナ、27:ナターリヤ・ペトローヴナの3人は、のちにツェサレーヴナの称号を与えられている(下記参照)。
ツァレーヴィチの妃としてツァレーヴナとなったのは以下の5人のみ。
イヴァン雷帝の嫡男イヴァン・イヴァーノヴィチの最初の妃エヴドキーヤは、1571年に結婚したが、子を生さなかったため1572年に修道院に押し込められた。次の妃フェオドーシヤは1575年に結婚したが、これまた1579年に離縁され、修道院に押し込められた。三人目の妃エレーナは1581年に結婚。妊娠中の1582年、夫を失った。
フョードル・イヴァーノヴィチの妃イリーナは1580年に結婚。夫がツァーリになると同時にツァリーツァとなった。
ピョートル大帝の皇太子アレクセイの妃ソフィヤ・シャルロッタは1711年にアレクセイと結婚した。
女帝/皇后/皇太后 императрица
女帝とは «女性の皇帝»、皇后とは «皇帝の妃»、皇太后とは «前皇帝の未亡人» を意味する。しかしロシア語にはこの3つの区別はない。強いて区別する場合、女帝には царствующая (君臨している)、皇太后には вдовствующая (未亡人となった)という形容詞をつけることもある(公的なものではない)。
1721年、ピョートル大帝が皇帝を名乗り、自動的にその妃であったエカテリーナ・アレクセーエヴナが最初の императрица(この場合は皇后)となった。1725年には彼女自身が即位し、最初の女帝にもなったわけだ。
以後、アンナ・イヴァーノヴナとエリザヴェータ・ペトローヴナはともに女帝として即位。
ふたり目のエカテリーナ・アレクセーエヴナは初代に続いてふたり目の皇后となり、引き続き4人目の女帝となった。
世代 | 名・父称 | 生没年 | 夫 | ||
---|---|---|---|---|---|
1 | 1721-27 | 3 | エカテリーナ・アレクセーエヴナ(女帝1世) | 1684-1727 | ピョートル1世大帝 |
2 | 1730-40 | 4 | アンナ・イヴァーノヴナ(女帝) | 1693-1740 | |
3 | 1741-61 | 4 | エリザヴェータ・ペトローヴナ(女帝) | 1709-61 | − |
4 | 1761-96 | 5 | エカテリーナ・アレクセーエヴナ(女帝2世) | 1729-96 | ピョートル3世 |
5 | 1796-1828 | 6 | マリーヤ・フョードロヴナ | 1759-1828 | パーヴェル1世 |
6 | 1801-26 | 7 | エリザヴェータ・アレクセーエヴナ | 1779-1826 | アレクサンドル1世 |
7 | 1825-60 | 7 | アレクサンドラ・フョードロヴナ | 1798-1860 | ニコライ1世 |
8 | 1855-80 | 8 | マリーヤ・アレクサンドロヴナ | 1824-80 | アレクサンドル2世 |
9 | 1881-1917 | 9 | マリーヤ・フョードロヴナ | 1847-1928 | アレクサンドル3世 |
10 | 1896-1917 | 10 | アレクサンドラ・フョードロヴナ | 1872-1918 | ニコライ2世 |
アンナ・イヴァーノヴナとエリザヴェータ・ペトローヴナははなから «女帝» として императрица になったが、それ以外はすべて «皇后» として императрица になった。その場合、最後のアレクサンドラ・フョードロヴナを除き、すべて夫が皇帝になると同時に «皇后» となっている。夫が皇帝となった後に «皇后» となったのはアレクサンドラ・フョードロヴナのみ(それ以外は夫が皇帝として即位する前に結婚している)。
ツァーリ/皇帝の娘として императрица(この場合は «女帝»)となったアンナとエリザヴェータを除き、あとはすべて外国人というのは、ツァリーツァとはっきり対照的でおもしろい。
ロシア宮廷は特殊で、皇太后が皇后に優先する。つまりマリーヤ・フョードロヴナ以来、皇后は6人いるが、ファーストレディはふたり少なく、マリーヤ・フョードロヴナ(1796-1828)、アレクサンドラ・フョードロヴナ(1828-60)、マリーヤ・アレクサンドロヴナ(1860-80)、マリーヤ・フョードロヴナ(1881-1917)の4人だけ。
ツェサレーヴナ цесаревна
1721年、皇帝を名乗ったピョートル大帝は、自分の娘の称号をそれまでのツァレーヴナからツェサレーヴナに変えた。
しかしこの慣習はすぐに廃れる(そもそも歴代皇帝に娘が生まれなかった)。
1797年、皇帝パーヴェルの勅令によりツェサレーヴナはツェサレーヴィチの妃に与えられる称号として復活。ただしツェサレーヴィチは同時に大公でもあり、ツェサレーヴナも同時に大公妃の称号を帯びた。実際、歴代ツェサレーヴナはこの称号では呼ばれない(«大公妃» と呼ばれた)。
世代 | 名・父称 | 生没年 | 父/夫 | ||
---|---|---|---|---|---|
1 | 1721-28 | 4 | アンナ・ペトローヴナ | 1708-28 | ピョートル1世大帝の娘 |
2 | 1721-41 | 4 | エリザヴェータ・ペトローヴナ | 1709-61 | ピョートル1世大帝の娘 |
3 | 1721-25 | 4 | ナターリヤ・ペトローヴナ | 1718-25 | ピョートル1世大帝の娘 |
4 | 1797-1801 | 7 | エリザヴェータ・アレクセーエヴナ | 1779-1826 | アレクサンドル1世の妃 |
5 | 1799-1820 | 7 | アンナ・フョードロヴナ | 1781-1860 | コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公の妃 |
6 | 1841-55 | 8 | マリーヤ・アレクサンドロヴナ | 1824-80 | アレクサンドル2世の妃 |
7 | 1866-81 | 9 | マリーヤ・フョードロヴナ | 1847-1928 | アレクサンドル3世の妃 |
ツェサレーヴィチ цесаревич
1721年にピョートル大帝がつくり出したツェサレーヴナにちなんで、エカテリーナ2世によってつくられた。事実上皇太子という意味。
1797年、皇帝パーヴェルの勅令によってこの称号は正式なものとなる。以後、歴代の第一皇位継承権者(皇太子、皇太弟)がこの称号を帯び、革命まで常に途切れることなく1名、この称号を有する人間がいた。正式な称号は Государь Наследник Цесаревич である。
ちなみに、ツェサレーヴィチという称号を与えられても、皇帝の息子として生得の大公という称号が剥奪されるわけではない。むしろツェサレーヴィチよりも大公と呼ばれるのが一般的。
世代 | 名・父称 | 生没年 | 父 | ||
---|---|---|---|---|---|
1 | 1762-96 | 6 | パーヴェル・ペトローヴィチ(皇帝) | 1754-1801 | ピョートル3世 |
2 | 1796-1801 | 7 | アレクサンドル・パーヴロヴィチ(皇帝1世) | 1777-1825 | パーヴェル |
3 | 1799-1831 | 7 | コンスタンティーン・パーヴロヴィチ | 1779-1831 | パーヴェル |
4 | 1825-55 | 8 | アレクサンドル・ニコラーエヴィチ(皇帝2世) | 1818-81 | ニコライ1世 |
5 | 1855-65 | 9 | ニコライ・アレクサンドロヴィチ | 1843-65 | アレクサンドル2世 |
6 | 1865-81 | 9 | アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ(皇帝3世) | 1845-94 | アレクサンドル2世 |
7 | 1881-94 | 10 | ニコライ・アレクサンドロヴィチ(皇帝2世) | 1868-1918 | アレクサンドル3世 |
8 | 1894-99 | 10 | ゲオルギイ・アレクサンドロヴィチ | 1871-99 | アレクサンドル3世 |
9 | 1899-1904 | 10 | ミハイール・アレクサンドロヴィチ | 1878-1918 | アレクサンドル3世 |
10 | 1904-17 | 11 | アレクセイ・ニコラーエヴィチ | 1904-18 | ニコライ2世 |
一時期のコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公は唯一の例外。
実際にかれが皇位継承順位第一位だったのは1801年から1825年まで。それ以前は兄アレクサンドル(1世)が、以後は甥アレクサンドル(2世)が皇位継承順位第一位のツェサレーヴィチ。しかも1820年には貴賤結婚に際して皇位継承権を放棄している。
そのせいか、かれの称号は Государь Наследник Цесаревич ではなく、単なる Цесаревич であった。
大公 великий князь/大公女 великая княжна
元来 «大公» とは、キエフ大公以来、キエフ・ルーシからモスクワ・ロシアにかけて最高権力者の称号であった。イヴァン雷帝がツァーリとして戴冠して以来その影に隠れてしまったが、なくなったわけではない。
ピョートル大帝の時代まで、ツァーリに孫が生まれるということがなかった。ツァーリの子はツァレーヴィチ/ツァレーヴナだが、では孫は何と呼ばれるのか。史料の記述がまちまちではっきりしないが、おそらくピョートル大帝の孫ピョートル2世が、ツァーリ・皇帝以外で最初に大公の称号を帯びたものと思われる。
ただし、«大公の娘» を意味する大公女の称号はすでに古くから使用されていた。しかし当然、ツァーリの称号が現れてからは使われなくなっていた。
1797年、皇帝パーヴェルの勅令により、皇帝の男系子孫全員に大公/大公女の称号が与えられることになった。ただし、貴賤結婚および皇帝の承認を得ない結婚から生まれた者には与えられない。
1886年、皇帝アレクサンドル3世の勅令により、皇帝の子と内孫とに範囲が限定された。
ちなみに外国語では «ロシア大公»、«Grand duke of Russia» などと訳されるが、ロシア語では単に великий князь。
世代 | 名・父称 | 生没年 | 父 | |
---|---|---|---|---|
1 | 5 | ナターリヤ・アレクセーエヴナ | 1714-28 | アレクセイ・ペトローヴィチ |
1 | 5 | ピョートル・アレクセーエヴィチ(皇帝2世) | 1715-30 | アレクセイ・ペトローヴィチ |
2 | 6 | イヴァン・アントーノヴィチ(皇帝6世) | 1740-64 | |
3 | 5 | ピョートル・フョードロヴィチ(皇帝3世) | 1728-62 | ※1742より |
4 | 6 | パーヴェル・ペトローヴィチ(皇帝) | 1754-1801 | 皇帝ピョートル3世 |
2 | 6 | アンナ・ペトローヴナ | 1757-59 | 皇帝ピョートル3世 |
5 | 7 | アレクサンドル・パーヴロヴィチ(皇帝1世) | 1777-1825 | 皇帝パーヴェル |
6 | 7 | コンスタンティーン・パーヴロヴィチ | 1779-1831 | 皇帝パーヴェル |
3 | 7 | アレクサンドラ・パーヴロヴナ | 1783-1801 | 皇帝パーヴェル |
4 | 7 | エレーナ・パーヴロヴナ | 1784-1803 | 皇帝パーヴェル |
5 | 7 | マリーヤ・パーヴロヴナ | 1786-1859 | 皇帝パーヴェル |
6 | 7 | エカテリーナ・パーヴロヴナ | 1788-1818 | 皇帝パーヴェル |
7 | 7 | オリガ・パーヴロヴナ | 1792-95 | 皇帝パーヴェル |
8 | 7 | アンナ・パーヴロヴナ | 1795-1865 | 皇帝パーヴェル |
7 | 7 | ニコライ・パーヴロヴィチ(皇帝1世) | 1796-1855 | 皇帝パーヴェル |
8 | 7 | ミハイール・パーヴロヴィチ | 1798-1849 | 皇帝パーヴェル |
9 | 8 | マリーヤ・アレクサンドロヴナ | 1799-1800 | 皇帝アレクサンドル1世 |
10 | 8 | エリザヴェータ・アレクサンドロヴナ | 1806-08 | 皇帝アレクサンドル1世 |
9 | 8 | アレクサンドル・ニコラーエヴィチ(皇帝2世) | 1818-81 | 皇帝ニコライ1世 |
11 | 8 | マリーヤ・ニコラーエヴナ | 1819-76 | 皇帝ニコライ1世 |
12 | 8 | オリガ・ニコラーエヴナ | 1822-92 | 皇帝ニコライ1世 |
13 | 8 | マリーヤ・ミハイロヴナ | 1825-46 | ミハイール・パーヴロヴィチ大公 |
14 | 8 | アレクサンドラ・ニコラーエヴナ | 1825-44 | 皇帝ニコライ1世 |
15 | 8 | エリザヴェータ・ミハイロヴナ | 1826-45 | ミハイール・パーヴロヴィチ大公 |
16 | 8 | エリザヴェータ・ニコラーエヴナ | 1826 | 皇帝ニコライ1世 |
17 | 8 | エカテリーナ・ミハイロヴナ | 1827-94 | ミハイール・パーヴロヴィチ大公 |
10 | 8 | コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ | 1827-92 | 皇帝ニコライ1世 |
18 | 8 | アレクサンドラ・ミハイロヴナ | 1831-32 | ミハイール・パーヴロヴィチ大公 |
11 | 8 | ニコライ・ニコラーエヴィチ | 1831-91 | 皇帝ニコライ1世 |
12 | 8 | ミハイール・ニコラーエヴィチ | 1832-1909 | 皇帝ニコライ1世 |
19 | 8 | アンナ・ミハイロヴナ | 1834-36 | ミハイール・パーヴロヴィチ大公 |
20 | 9 | アレクサンドラ・アレクサンドロヴナ | 1842-49 | 皇帝アレクサンドル2世 |
13 | 9 | ニコライ・アレクサンドロヴィチ | 1843-65 | 皇帝アレクサンドル2世 |
14 | 9 | アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ(皇帝3世) | 1845-94 | 皇帝アレクサンドル2世 |
15 | 9 | ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ | 1847-1909 | 皇帝アレクサンドル2世 |
16 | 9 | アレクセイ・アレクサンドロヴィチ | 1850-1908 | 皇帝アレクサンドル2世 |
17 | 9 | ニコライ・コンスタンティーノヴィチ | 1850-1918 | コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公 |
21 | 9 | オリガ・コンスタンティーノヴナ | 1851-1926 | コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公 |
22 | 9 | マリーヤ・アレクサンドロヴナ | 1853-1920 | 皇帝アレクサンドル2世 |
23 | 9 | ヴェーラ・コンスタンティーノヴナ | 1854-1912 | コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公 |
18 | 9 | ニコライ・ニコラーエヴィチ | 1856-1929 | ニコライ・ニコラーエヴィチ大公 |
19 | 9 | セルゲイ・アレクサンドロヴィチ | 1857-1905 | 皇帝アレクサンドル2世 |
20 | 9 | コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ | 1858-1915 | コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公 |
21 | 9 | ニコライ・ミハイロヴィチ | 1859-1919 | ミハイール・ニコラーエヴィチ大公 |
22 | 9 | ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ | 1860-1919 | コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公 |
24 | 9 | アナスタシーヤ・ミハイロヴナ | 1860-1922 | ミハイール・ニコラーエヴィチ大公 |
23 | 9 | パーヴェル・アレクサンドロヴィチ | 1860-1919 | 皇帝アレクサンドル2世 |
24 | 9 | ミハイール・ミハイロヴィチ | 1861-1929 | ミハイール・ニコラーエヴィチ大公 |
25 | 9 | ヴャチェスラーフ・コンスタンティーノヴィチ | 1862-79 | コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公 |
26 | 9 | ゲオルギイ・ミハイロヴィチ | 1863-1919 | ミハイール・ニコラーエヴィチ大公 |
27 | 9 | ピョートル・ニコラーエヴィチ | 1864-1931 | ニコライ・ニコラーエヴィチ大公 |
28 | 9 | アレクサンドル・ミハイロヴィチ | 1866-1933 | ミハイール・ニコラーエヴィチ大公 |
29 | 10 | ニコライ・アレクサンドロヴィチ(皇帝2世) | 1868-1918 | 皇帝アレクサンドル3世 |
30 | 10 | アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ | 1869-70 | 皇帝アレクサンドル3世 |
31 | 9 | セルゲイ・ミハイロヴィチ | 1869-1918 | ミハイール・ニコラーエヴィチ大公 |
32 | 10 | ゲオルギイ・アレクサンドロヴィチ | 1871-99 | 皇帝アレクサンドル3世 |
25 | 10 | クセーニヤ・アレクサンドロヴナ | 1875-1960 | 皇帝アレクサンドル3世 |
33 | 10 | アレクサンドル・ヴラディーミロヴィチ | 1875-77 | ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公 |
34 | 9 | アレクセイ・ミハイロヴィチ | 1875-95 | ミハイール・ニコラーエヴィチ大公 |
35 | 10 | キリール・ヴラディーミロヴィチ | 1876-1938 | ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公 |
36 | 10 | ボリース・ヴラディーミロヴィチ | 1877-1943 | ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公 |
37 | 10 | ミハイール・アレクサンドロヴィチ | 1878-1918 | 皇帝アレクサンドル3世 |
38 | 10 | アンドレイ・ヴラディーミロヴィチ | 1879-1956 | ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公 |
26 | 10 | オリガ・アレクサンドロヴナ | 1882-1960 | 皇帝アレクサンドル3世 |
27 | 10 | エレーナ・ヴラディーミロヴナ | 1882-1957 | ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公 |
39 | 10 | ヨアン・コンスタンティーノヴィチ※ | 1886-1918 | コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ |
28 | 10 | マリーヤ・パーヴロヴナ | 1890-1958 | パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公 |
40 | 10 | ドミートリイ・パーヴロヴィチ | 1891-1942 | パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公 |
29 | 11 | オリガ・ニコラーエヴナ | 1895-1918 | 皇帝ニコライ2世 |
30 | 11 | タティヤーナ・ニコラーエヴナ | 1897-1918 | 皇帝ニコライ2世 |
31 | 11 | マリーヤ・ニコラーエヴナ | 1899-1918 | 皇帝ニコライ2世 |
32 | 11 | アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ | 1901-18 | 皇帝ニコライ2世 |
41 | 11 | アレクセイ・ニコラーエヴィチ | 1904-18 | 皇帝ニコライ2世 |
原則誕生と共に与えられ、死ぬまでこの称号を帯びる。ただし皇帝になればこの称号はその他の称号に埋もれてしまう。
例外はナンバー3:ピョートル・フョードロヴィチ(1742年に与えられる)、ナンバー39:ヨアン・コンスタンティーノヴィチ(1886年、誕生直後に剥奪される)。
ちなみに、もし帝政が続いていたら、第11世代目にして大公はゼロになっていた(アレクセイ・ニコラーエヴィチは皇太子だからいずれは皇帝となったはず)。
大公妃 великая княгиня
大公の妃。ただし、君主の家系の出であり、結婚自体も皇帝の承認を得たものでなければならない。
イヴァン雷帝以前を別とすれば、最初に使われたのは皇太子妃時代のエカテリーナ2世である。
世代 | 名・父称 | 生没年 | 夫 | ||
---|---|---|---|---|---|
1 | 1745-61 | 5 | エカテリーナ・アレクセーエヴナ | 1729-96 | ピョートル・フョードロヴィチ(皇帝3世) |
2 | 1773-76 | 6 | ナターリヤ・アレクセーエヴナ | 1755-76 | パーヴェル・ペトローヴィチ(皇帝) |
3 | 1776-96 | 6 | マリーヤ・フョードロヴナ | 1759-1828 | パーヴェル・ペトローヴィチ(皇帝) |
4 | 1793-1801 | 7 | エリザヴェータ・アレクセーエヴナ | 1779-1826 | アレクサンドル・パーヴロヴィチ(皇帝1世) |
5 | 1796-1860 | 7 | アンナ・フョードロヴナ | 1781-1860 | コンスタンティーン・パーヴロヴィチ |
6 | 1817-25 | 7 | アレクサンドラ・フョードロヴナ | 1798-1860 | ニコライ・パーヴロヴィチ(皇帝1世) |
7 | 1824-73 | 7 | エレーナ・パーヴロヴナ | 1807-73 | ミハイール・パーヴロヴィチ |
8 | 1841-55 | 8 | マリーヤ・アレクサンドロヴナ | 1824-80 | アレクサンドル・ニコラーエヴィチ(皇帝2世) |
9 | 1848-1911 | 8 | アレクサンドラ・イオシフォヴナ | 1830-1911 | コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ |
10 | 1856-1900 | 8 | アレクサンドラ・ペトローヴナ | 1838-1900 | ニコライ・ニコラーエヴィチ |
11 | 1857-91 | 8 | オリガ・フョードロヴナ | 1839-91 | ミハイール・ニコラーエヴィチ |
12 | 1866-81 | 9 | マリーヤ・フョードロヴナ | 1847-1928 | アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ(皇帝3世) |
13 | 1874-1917 | 9 | マリーヤ・パーヴロヴナ | 1854-1923 | ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ |
14 | 1884-1917 | 9 | エリザヴェータ・マヴリーキエヴナ | 1865-1927 | コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ |
15 | 1884-1917 | 9 | エリザヴェータ・フョードロヴナ | 1864-1918 | セルゲイ・アレクサンドロヴィチ |
16 | 1889-91 | 9 | アレクサンドラ・ゲオルギエヴナ | 1870-91 | パーヴェル・アレクサンドロヴィチ |
17 | 1889-1917 | 9 | ミリツァ・ニコラーエヴナ | 1866-1951 | ピョートル・ニコラーエヴィチ |
18 | 1894-1917 | 9/10 | クセーニヤ・アレクサンドロヴナ | 1875-1960 | アレクサンドル・ミハイロヴィチ |
19 | 1900-17 | 9 | マリーヤ・ゲオルギエヴナ | 1876-1940 | ゲオルギイ・ミハイロヴィチ |
20 | 1907-17 | 9 | アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ | 1868-1935 | ニコライ・ニコラーエヴィチ |
21 | 1907-17 | 10 | ヴィクトリヤ・フョードロヴナ | 1876-1936 | キリール・ヴラディーミロヴィチ |
原則として大公との婚約、あるいは結婚に際して与えられる。夫が死んでも大公妃の称号はそのまま残るが、夫が皇帝になればとうぜん大公妃ではなく皇妃になる。
例外はナンバー5:アンナ・フョードロヴナ(1820年離婚した。ただし大公妃の称号は保持することが認められた)、ナンバー21:ヴィクトリヤ・フョードロヴナ(結婚は1905年)。
この中で例外的な存在がナンバー18:クセーニヤ・アレクサンドロヴナ。彼女だけがロシア人で、あとは全員外国人(ほぼドイツ人)。彼女はまたロマーノフ家の女性でもあり、大公妃であると同時に大公女でもある。
なお、第10世代目に属するのがヴィクトリヤ・フョードロヴナだけというのは、この世代(以降)がイレギュラーな結婚ばかりだったことを物語っている。
公 князь/公女 княжна
正式には、«皇帝の血の公 князь императорской крови» であり «皇帝の血の公女 княжна императорской крови»。おそらくフランスの prince du sang を翻案したものだろう。
1886年、皇帝アレクサンドル3世の勅令により、大公/大公女の称号が皇帝の子および内孫にのみ限定されることになった結果、代わりに与えられることになった。
世代 | 名・父称 | 生没年 | 夫 | |
---|---|---|---|---|
1 | 10 | ヨアン・コンスタンティーノヴィチ | 1886-1918 | コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公 |
2 | 10 | ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ | 1887-1955 | コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公 |
1 | 10 | タティヤーナ・コンスタンティーノヴナ | 1890-1970 | コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公 |
3 | 10 | コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ | 1890-1918 | コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公 |
2 | 10 | マリーナ・ペトローヴナ | 1892-1981 | ピョートル・ニコラーエヴィチ大公 |
4 | 10 | オレーグ・コンスタンティーノヴィチ | 1892-1914 | コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公 |
5 | 10 | イーゴリ・コンスタンティーノヴィチ | 1894-1918 | コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公 |
3 | 10 | イリーナ・アレクサンドロヴィチ | 1895-1970 | アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公 |
6 | 10 | ロマーン・ペトローヴィチ | 1896-1978 | ピョートル・ニコラーエヴィチ大公 |
7 | 10 | アンドレイ・アレクサンドロヴィチ | 1897-1981 | アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公 |
4 | 10 | ナデージュダ・ペトローヴナ | 1898-1988 | ピョートル・ニコラーエヴィチ大公 |
5 | 10 | ソフィヤ・ペトローヴナ | 1898 | ピョートル・ニコラーエヴィチ大公 |
8 | 10 | フョードル・アレクサンドロヴィチ | 1898-1968 | アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公 |
9 | 10 | ニキータ・アレクサンドロヴィチ | 1900-74 | アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公 |
6 | 10 | ニーナ・ゲオルギエヴナ | 1901-74 | ゲオルギイ・ミハイロヴィチ大公 |
10 | 10 | ドミートリイ・アレクサンドロヴィチ | 1901-80 | アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公 |
11 | 10 | ロスティスラーフ・アレクサンドロヴィチ | 1902-78 | アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公 |
12 | 10 | ゲオルギイ・コンスタンティーノヴィチ | 1903-38 | コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公 |
7 | 10 | クセーニヤ・ゲオルギエヴナ | 1903-65 | ゲオルギイ・ミハイロヴィチ大公 |
8 | 10 | ナターリヤ・コンスタンティーノヴナ | 1905 | コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公 |
9 | 10 | ヴェーラ・コンスタンティーノヴナ | 1906-2001 | コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公 |
10 | 11 | マリーヤ・キリーロヴナ | 1907-51 | キリール・ヴラディーミロヴィチ大公 |
13 | 10 | ヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチ | 1907-89 | アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公 |
11 | 11 | キーラ・キリーロヴナ | 1909-67 | キリール・ヴラディーミロヴィチ大公 |
14 | 11 | ヴラディーミル・キリーロヴィチ | 1917-92 | キリール・ヴラディーミロヴィチ大公 |
大公/大公女と同様、原則として誕生と共に与えられ、死ぬまでこの称号を帯びる。
例外はナンバー1:ヨアン・コンスタンティーノヴィチ(生まれた時は大公だったが、その直後にアレクサンドル3世の勅令が出て公に «格下げ» された)。
なお、最後のヴラディーミル・キリーロヴィチは1917年の革命後に生まれた。
公妃 княгиня
公の妃。ただし、君主の家系の出であり、結婚自体も皇帝の承認を得たものでなければならない。
世代 | 名・父称 | 生没年 | 夫 | ||
---|---|---|---|---|---|
1 | 1911-17 | 10 | エレーナ・ペトローヴナ | 1884-1962 | ヨアン・コンスタンティーノヴィチ |
これ以外の公の妃は全員貴賤結婚。そもそも革命後の結婚。
なお、皇族の称号とは無縁だが、公の妃ではなく «女性の公» もまたロシア語では княгиня となる。
ロマーノフ家関連で例を挙げると、エカテリーナ・ドルゴルーカヤやオリガ・カルノーヴィチは княгиня という称号を与えられた。ふたりとも、自分自身の権利として княгиня の称号を有したわけである。
ふたりの夫はいずれも公ではない(前者は皇帝、後者は大公)。ゆえに彼女らを «公妃» と呼ぶのはおかしいのだが、日本語では «女公爵» というのも少々おかしいので、ここでは便宜上 «公妃» と訳しておく。