ロシア学事始ロシアの君主

歴代君主人名録

偽ドミートリイ2世

Дмитрий Иванович, "Лжедмитрий"

ツァーリ царь всея Руси (1607-10)

生:?
没:1610.12.11/12.21−カルーガ

父:?
母:?

結婚:なし

子:

生没年
マリーナ・ムニーシェクと
1イヴァン1611-14

正体不明の僭称者。イヴァン雷帝の末子ツァレーヴィチ・ドミートリイを自称した。と言うより、「生き延びた偽ドミートリイ1世」を自称した。
 ややこしいところだが、正確に言うと、偽ドミートリイ2世はツァレーヴィチ・ドミートリイであることを主張したわけではない。偽ドミートリイ1世であると主張したのである。偽ドミートリイ1世自身がツァレーヴィチ・ドミートリイを自称していたのだから結果的には同じことだが、力点の置き場所が異なる。偽ドミートリイ2世は、いかにボリース・ゴドゥノーフの暗殺から逃れたか、などは一度も説明していない。いかにヴァシーリイ・シュイスキイのクーデタから生き延びたか、だけを説明している。
 すなわち、「戴冠式はすでに1606年に(偽ドミートリイ1世が)済ませているのだから、偽ドミートリイ2世はこの世に出現した瞬間からツァーリであることになる。あとは正統なツァーリである偽ドミートリイ(もちろん «偽» とは言わない)を殺したと思い込んでツァーリ位を簒奪したヴァシーリイ・シュイスキイを倒してツァーリ位を奪還するだけである。」というのが、偽ドミートリイ2世の論理である。
 当然、マリーナ・ムニーシェクとの結婚式も1606年に済ませているから、偽ドミートリイ2世は改めて結婚式を挙げるようなことはしていない。ただマリーナ・ムニーシェクに自分を偽ドミートリイ1世と認めさせただけである。

 偽ドミートリイ1世の正体が修道士グリゴーリイ(ユーリイ・オトレーピエフ)であるのはほぼ確実で、少なくとも学界の定説になっているが、その一方で偽ドミートリイ2世の正体については諸説紛々。偽ドミートリイ1世と同様、多少なりとも学があったことは確かなようだが。

  1. シュクローフ出身のユダヤ人の息子
  2. セーヴェルスカヤ・ゼムリャーの司祭の息子
  3. スタロドゥーブの銃兵の息子
  4. クールブスキイ公の息子

 いずれにせよ、「偽ドミートリイ1世は死んでいない」とする噂に乗じたアヴァンチュリストであることは間違いない。この噂を増幅させたのが、ボロートニコフの乱である。ボロートニコフは自らを «偽ドミートリイ1世の総司令官» と称し、いずれ偽ドミートリイ1世が現れると言っていた。ちなみに、言うまでもないが、ここでいう «偽ドミートリイ» とは、偽ドミートリイ自身やボロートニコフにとっては «本物のツァレーヴィチ・ドミートリイ» である。
 こうして1607年、偽ドミートリイ2世はスタロドゥーブに出現する。もっとも偽ドミートリイ2世は、最初から「生き延びた偽ドミートリイ1世」と主張したわけではなく、当初はアンドレイ・アンドレーエヴィチ・ナゴーイ(マリーヤ・ナガーヤの親族)を騙った。
 ボロートニコフの乱の支柱となっていたグリゴーリイ・シャホフスコーイ公はプティーヴリの、アンドレイ・テリャーテフスキイ公はチェルニーゴフのそれぞれ総督であり、もともと偽ドミートリイ1世がプティーヴリを拠点としたこともあって、南西ロシアには中央の統制が行き届いていなかった。ここで偽ドミートリイ2世は、ボロートニコフの乱の残党(主に農民とホロープ)、ポーランド人のアヴァンチュリスト(国王派貴族も反国王派貴族も)、ヴァシーリイ・シュイスキイに反発するロシア貴族、さらにはコサックをも糾合。ミコワイ・ミェホヴィツキを司令官として北上を開始した偽ドミートリイ2世軍は、トゥーラで政府軍の攻囲を耐えていたボロートニコフの乱の残党と合流することを目指した。しかしブリャンスクを陥とすことができず、そうこうする間にトゥーラが陥落してボロートニコフの乱は完全に終息。偽ドミートリイ2世軍は南西ロシアから出ることができず年を越えた。

 1608年、アレクサンデル・リソフスキ、アダム・ヴィシュニョヴェツキ、ロマン・ロジニスキなどの反国王派ポーランド貴族、ドンとザポロージエのコサック(そのリーダーのひとりがイヴァン・ザルーツキイ)によって増強された偽ドミートリイ2世軍は、再び北上を開始。夏にはモスクワを攻囲するまでに至ったが、モスクワを陥落させることはできなかった。
 こうしてモスクワ近郊のトゥーシノに本営を構えることになった。
 このため一般的には «トゥーシノの賊 тушинский вор» と呼ばれている。

 トゥーシノ政権は、事実上ヴァシーリイ・シュイスキイのモスクワ政権とロシアを二分する存在となった。
 アレクセイ・シーツキイ公、ドミートリイ・チェルカースキイ公、ドミートリイ・トルベツコーイ公、ミハイール・サルトィコーフ、ヴァシーリイ・ルベーツ=モサーリスキイ公などがモスクワからトゥーシノに来たり、かれらによって貴族会議が形成された。偽ドミートリイは独自にボヤーリンを任命したりもしている(グリゴーリイ・シャホフスコーイ公など)。マリーナ・ムニーシェクも加わり、こうして宮廷が整備された。
 プリカーズ(省庁)も設置された。ピョートル改革以前の高級官僚の最も有名なひとりイヴァン・グラーモティンもトゥーシノ政権に加わっている。さらに捕虜となったロストーフ府主教フィラレート(実際は自ら偽ドミートリイ側に寝返った)がモスクワ総主教に任命され、全国の教会に対する管轄をもモスクワのゲルモゲーンと争うことになった。
 しかし「ロシアを二分する存在となった」と言っても、実際にトゥーシノ政権の権限が及んでいたのは南西部のみ。広く南方一帯はむしろ無政府状態にあって、トゥーシノ政権の権威もモスクワ政権の権威も必ずしも浸透していなかった。これに対して北方は基本的にモスクワ政権側についていて、偽ドミートリイとしては北方一帯に勢力を拡大することが急務であった。そのために軍を派遣して各都市を屈服させたのはいいが、問題は派遣した軍がポーランド人やコサックから構成されていたことにある。都市は屈服しても、住民には反ポーランド感情、反コサック感情が残り、そしてそれはそのまま反偽ドミートリイ感情へと転じた。
 こうして、トゥーシノ政権は支配基盤という観点からはモスクワ政権よりもはるかに脆弱であった。

 1609年、ポーランド王ジグムントがロシアに侵攻し、スモレンスクを攻囲。トゥーシノ政権のポーランド人のみならずロシア人にも、従軍を呼びかけた。他方この時、スウェーデン軍がロシア軍と協力して北西からモスクワを目指して進軍してきており、偽ドミートリイ軍はトヴェーリ近郊で敗北。セールギエフ・ポサードの聖三位一体セールギイ修道院も解放されて、トゥーシノ政権は劣勢に立たされていた。
 このような状況の中で、偽ドミートリイ軍の総司令官となっていたロマン・ロジニスキが脱落。さらに親ポーランド派のサルトィコーフやルベーツ=モサーリスキイ公などもトゥーシノを去り、偽ドミートリイ2世自らもトゥーシノを棄ててカルーガに逃亡。
 トゥーシノ政権は呆気なく崩壊した。

 カルーガにて、偽ドミートリイ2世は勢力の建て直しを図った。かれに従ったのはドミートリイ・トルベツコーイ公、ドミートリイ・チェルカースキイ公、グリゴーリイ・シャホフスコーイ公、ヤン・サピェハなどわずかな貴族のほかは、コサックであった。むしろこの時点では偽ドミートリイ勢はコサックから成っていたと言っても過言ではあるまい。しかしそれだけに、コサックに拒否反応を示す北ロシア諸都市や貴族たちからは反発され、勢力の挽回もままならなかった。
 1610年初夏には乾坤一擲のモスクワ侵攻を試みるが、これも不発に終わった。なお、この時モスクワでは、ヴァシーリイ・シュイスキイを廃位した «セミボヤールシチナ» が南方から北上する偽ドミートリイのコサックと、西方から東進するジュウキェフスキのポーランド軍との二者択一を迫られ、後者を選び、ポーランド軍をモスクワに招き入れている。もし偽ドミートリイ2世がこの時モスクワに向かわなければ、ポーランド軍のモスクワ占領という事態も発生しなかったかもしれない。

 モスクワの東方、オカー流域にカシーモフという都市がある。ここはヴァシーリイ2世によってカザン・ハーン国の王子カーシム=トレグブに分領として与えられ、以来カシーモフ・ハーン国が存在していた。カシーモフ・ハーン国は半ばは独立国、半ばはロシアの一部という、要するに属国であったが、時のハーンであるウラズ=ムハンメドは1608年のトゥーシノ政権成立以来偽ドミートリイ2世を支持していた。
 1610年春に政府軍によってカシーモフを攻略され、その直後にヴァシーリイ・シュイスキイが廃位されると、ウラズ=ムハンメドはスモレンスクに赴いてジグムントに忠誠を誓った。しかし家族が偽ドミートリイのもとにいたため、ウラズ=ムハンメドがジグムントへの忠誠は内緒のままカルーガに戻ってくると、偽ドミートリイはこの秘密を知り、ウラズ=ムハンメドを殺した。
 1ヶ月後、ウラズ=ムハンメドの盟友であったピョートル・ウルーソフ公(正教化したタタール人)により、偽ドミートリイ2世は殺された。遺骸の行方は不明。

 ちなみに、偽ドミートリイ1世はカトリックに改宗していたが、偽ドミートリイ2世は最後まで正教徒のままだった。

 顔立ちについてははっきりしたことはわからないが、あまり偽ドミートリイ1世に似ていなかったらしい。

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最終更新日 30 11 2012

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