ロシア学事始ロシアの君主

リューリク家人名録

ディール

Дир

キエフ公 князь Киевский (864-882)

生:?
没:?

父:?
母:?

結婚:?

子:?

素性不詳。アスコリドの相方。

 ノーヴゴロド第一年代記より。ノーヴゴロド第一年代記の最も古い部分は、現存するルーシ最古の文字史料のひとつである(13世紀半ばに書かれた)。ただし以下に引用する部分の写本は15世紀のものと考えられる。『原初年代記』同様、かなり古い先行史料を用いていると考えられる。

6362年(853-854)。ルーシの地の始まり。……(キイ三兄弟によるキエフ建設譚、ルーシの第一次コンスタンティノープル襲撃)……。
 ……この後、すなわちこれらの兄弟(キイ三兄弟)の後、ふたりのヴァリャーグがやって来て公を名乗った。ひとりはアスコリド、他方はディールという名だった。キエフに君臨してポリャーネを支配し、ドレヴリャーネやウーリチと戦った。
 キイ、シチェク、ホリフの時代、スロヴェーネ、クリヴィチー、メーリャと呼ばれたノーヴゴロドの人々は土地を持っていた。スロヴェーネは自分の、クリヴィチーは自分の、メーリャは自分の土地を。……(ノーヴゴロドへのリューリク兄弟招聘譚)……。
 二年後、シネウスと弟トルヴォルが死に、リューリクひとりが兄弟たちの領土に権力を確立し、独りで統治し始めた。かれには息子が産まれ、イーゴリと名付けた。イーゴリは成長すると、賢く勇敢になった。かれには賢く勇敢なオレーグという軍司令官がいた。(かれらは)戦いを始め、ドニェプル河とスモレンスク市に向かった。そこからドニェプルに沿って行き、キエフの山々に至って、キエフ市を目にしてここに君臨するのが誰か尋ねた。答えた『ふたりの兄弟アスコリドディールだ』。イーゴリとオレーグは、近郊を通過するふりをしながら、船に隠れ、少人数の従士団とともに岸辺に這いより、商人を装ってアスコリドディールを呼んだ。かれらが現れると、船からイーゴリの戦士たちが岸に飛び出した。イーゴリはアスコリドに言った『汝らは公に非ず、公の一族に非ず。われは公にして、君臨するはわれにあり Вы не князья, не княжеского рода, но я князь и мне надлежит княжить.』。こうしてアスコリドディールを殺し、山に運んでかれらを葬った。アスコリドはこんにちウゴルの山と呼ばれ、オリマ宮殿のある山に。この墓にオリマは聖ニコラ教会を建てたのである。ディールの墓は聖イリーナ教会の裏にある。こうしてイーゴリはキエフに君臨し、その傍らにはヴァリャーギがおり、この時よりその他の者がルーシと呼ばれるようになった。イーゴリは都市を建て始め、スロヴェーネとヴァリャーギ、クリヴィチーに貢納し、メーリャはヴァリャーギに貢納し、ノーヴゴロドからは年に300グリーヴナが平和維持のために払われたが、これはこんにちでは与えられていない。その後、オリガという名の妻を迎えたが、彼女は賢く頭の回転が速かった。彼女から息子スヴャトスラーフが生まれた。
 その後、この時代の後、6428年(919-920)にイーゴリ公はギリシャ人に対して1万艘の船のルーシの戦士を送り込んだ。……(ルーシの第二次コンスタンティノープル襲撃)……。

ポリャーネ、ドレヴリャーネ、ウーリチは、こんにちのウクライナに住んだ東スラヴ系の部族。
 スロヴェーネとクリヴィチーは、こんにちの北西ロシアに住んだ東スラヴ系の部族。
 メーリャは、こんにちの北西ロシアに住んだウラル系の部族。

 『原初年代記』より。以下に引用するのは、1116年にシリヴェストルが書いた第2版を、1304年に書写したトヴェーリ年代記を、1377年にスーズダリで書写したラヴレンティイ年代記である。『原初年代記』はしばしばルーシ最古の文献などと呼ばれるが、現存するのは所詮14世紀のものである(ノーヴゴロド第一年代記の最古の部分よりも新しい)。

6370年(861-862)。……(ノーヴゴロドへのリューリク兄弟招聘譚、および2年後のシネウスとトルヴォルの死)……。かれ(リューリク)にはふたりの部下がいた。かれの親族ではないが、ボヤーリンで、かれらは自らの一族とともにコンスタンティノープルに向かった。ドニェプル沿いに向かうと、山の上に小さな都市を見つけた。聞いた『これは誰の都市だ?』。答えた『三人兄弟がいた。キイ、シチェク、ホリフである。この都市を建てて死んだ。われらはかれらの子孫で、ここに住んでいるが、ハザールに貢納している』。アスコリドディールはこの都市に残り、多くのヴァリャーギを集め、ポリャーネの地を支配し始めた。リューリクはノーヴゴロドに君臨していた。
 6374年(865-866)。アスコリドディールはギリシャ人との戦争を始め、ミカエルの治世14年目にかれらのもとに赴いた。皇帝は当時サラセン人への遠征に赴いており、黒い川にまでいたっていたが、ルーシがコンスタンティノープル遠征に来たことを主教が知らせると、皇帝は引き返した。かれらは金角湾の中に入ってきて、多くのキリスト教徒を殺し、200艘の船でコンスタンティノープルを攻囲した。皇帝は苦労してコンスタンティノープルに入城し、一晩中総主教フォティオスとともに聖母教会で祈りを捧げた。そして歌を歌いながら聖母の聖衣を持ち出し、その裾を海に浸した。静かで海は穏やかだったが、突然風とともに嵐が吹き始め、巨大な波が起こり、無神のルーシの船を散らして岸に打ちつけ、破壊した。この災難から逃れて帰郷することができたのは多くはなかった。
 6376年(867-868)。バシレイオスの治世が始まった。
 6377年(868-869)。ブルガールの地すべてが洗礼を受けた。
 6387年(878-879)。リューリクが死に、公位を一族のオレーグに譲った。息子イーゴリはまだ幼かったため、オレーグの手に委ねた。
 6390年(881-882)。ヴァリャーギ、チューディ、スロヴェーネ、メーリャ、ヴェーシ、クリヴィチー、多くの戦士を引き連れてオレーグが遠征に出発した。クリヴィチーとともにスモレンスクに至り、都市の権力を掌握すると、部下を据えた。そこから下に向かい、リューベチを奪って部下を据えた。そしてキエフの山にやって来ると、オレーグは、そこにアスコリドディールが君臨していることを知った。船に戦士を隠し、残りを後に残したまま、幼子イーゴリを抱えて自ら近づいた。ウゴルの山に近づき、戦士を隠したまま、アスコリドディールに使節を送って言った『われわれは商人である。オレーグと公子イーゴリからギリシャへと向かっている。われわれ、同胞のもとに来たれ』。アスコリドディールが来ると、船から残りみんなが飛び出し、オレーグがアスコリドディールに言った『汝らは公に非ず、公の一族に非ず。われこそ公の一族なり Вы не князья и не княжеского рода, я же княжеского рода.』。そしてイーゴリを示した。『そしてこれがリューリクの息子だ А это сын Рюриков.』。アスコリドディールを殺し、山に運んで、こんにちウゴルの山と呼ばれ、オリマ宮殿のある山にアスコリドを葬った。その墓にオリマは聖ニコラ教会を建てたのである。ディールの墓は聖イリーナ教会の裏にある。こうしてオレーグは公としてキエフに座り、言った『ここがルーシの都市の母であるよう Это будет мать городам русским.』。かれの傍らにはヴァリャーギやスラヴ人やその他がおり、かれらがルーシと呼ばれるようになった。オレーグは都市を建て、スロヴェーネ、クリヴィチー、メーリャから貢納を取り立てるようになり、平和維持のため毎年ノーヴゴロドからヴァリャーギに300グリーヴナづつ支払うことにした。これはヤロスラーフの死までヴァリャーギに支払われ続けることになる。

ミカエルとは、ビザンティン皇帝ミカエル3世(842-867)。その治世14年目といえば855年ということになる。しかし実際にルーシがコンスタンティノープルを襲撃したのは860年(治世19年目)。
 バシレイオスとは、ビザンティン皇帝バシレイオス1世(867-886)。
 チューディとヴェーシは、こんにちの北西ロシアから北ロシアにかけて住んだウラル系の部族。

 ところが、タティーシチェフが引用したヨアキーム年代記には、ディールのデの字もない。
 ヨアキーム年代記は、1030年に死んだノーヴゴロド主教ヨアキームを作者とする、ルーシ最古の年代記である。古い写本の蒐集家から伝手を頼ってタティーシチェフが借り出し、その著書『ロシアの歴史』に書き写したものだとしている(入手までの経緯も『ロシアの歴史』に記している)。ところがこの年代記については、タティーシチェフ以外に誰ひとりとして目にしていないどころか、いかなる文献にもそんなものが存在していたことすら記されていない。このため、その信憑性には疑いの目が向けられている。
 なお、ヨアキーム年代記がディールを落としていることについてタティーシチェフは次のように述べている。

ヨアキームは(オスコリドが)リューリクの息子とは述べていないが、状況的にそうであろう。キエフ市民が息子を求めたのであるから。イーゴリは当時まだ生まれていなかったか、揺り籠の中だった。オスコリドはリューリクの妃にとっては継子であるが、これをサルマート語では tirar という。この言葉を知らないネーストルがディールなる名を考え付き、オスコリドとディールというふたりの人物の名としてしまったのである。

すなわち、参考にした史料にあった tirar という言葉を、ネーストルが Dir という人名と勘違いした、というのである。この説を論じたものにはこんにちほとんどお目にかかることはないようだが、否定されているのだろうか。
 言語学的に言うと、ディールという名は、リューリクアスコリド、ローグヴォロドなどと同様に古ノルド語で解読可能らしい。それによると Dyri と再建し得る、とされる。
 しかし、一音節の単語はどうとでも解釈され得る。さらに言えば、古ノルド人(ヴァリャーギ)も含めた印欧語族の人名は、古来、単語二つの組み合わせが一般的である。つまりその限りで、ディールという単音節の人名はヴァリャーギの人名らしくない。もちろん稀にだが一単語から成る人名もあるから、これだけでディールという名の由来が古ノルド語ではなかった、と断定することは不可能である。

古ノルド語とは、北ゲルマン諸語(アイスランド語、スウェーデン語、デンマーク語、ノルウェー語)の祖形。おおよそ8世紀に原ノルド語(ノルド祖語)から発展し、14世紀頃以降はアイスランド語やスウェーデン語等々(の古形)へと分化していった。大きく東方言と西方言に分かれ、東方言からスウェーデン語とデンマーク語、西方言からアイスランド語とノルウェー語が発展していった。すなわち、ヴァリャーギは古ノルド語の東方言を話していたものと考えられる。ちなみに文字はルーン文字。
 ここでは東スラヴ諸語(ロシア語、ベラルーシ語、ウクライナ語)の共通の祖先を «ルーシ語» と呼んでおく。スラヴ祖語(共通スラヴ語)は7世紀・8世紀頃に東西南の方言へと分化していったが、この時代はまだおそらく相互の意思疎通は可能だったはず。

言語人名語源
二つの単語を組み合わせた人名(どの言語でも一般的)
サンスクリット提婆達多 Devadattadeva 天datta 与えられた
古代ペルシャ語ダレイオス Dareiosdaraya 保持vahu 良好
古代ギリシャ語クレオパトラ Kleopatrakleos 栄光pater 父
西ゲルマン語クローヴィス Clovishluot 栄誉vig 戦
北ゲルマン語エイリーク Eiríkei 常に / einn 1ríkr 支配者
スラヴ語スヴャトスラーフ Святославсвятой 聖слава 栄光
一つの単語だけから成る人名(どの言語でも稀)
古代ペルシャ語キュロス Kyroskuruš 太陽?
古代ギリシャ語ペテロ Petrospetra 岩
ラテン語パウロ Pauluspaulus 小さい
西ゲルマン語カール Karlkarl 自由人
北ゲルマン語クヌート Knutknútr 結び目

 ディールについては、10世紀前半のアラブの旅行家アル=マスーディが、947年頃に編纂した著書『黄金の牧場と宝石の鉱山』にて次のような興味深い記録を残している。

……。かれら(アル=サカーリバ)は様々な部族から成り、互いに争っている。かれらは王(複数)を持つ。ある者はネストリウス派キリスト教を信仰し、ある者は文字を持たず、法に従わない。かれらは異教徒であり、法について何も知らない。これら部族の中である部族が古く他に対する権力を握っていた。その王はマジャクと呼ばれており、この部族はヴァリナナと呼ばれていた。古くはこの部族にその他すべてのアル=サカーリバの部族が服従していた。かくしてかれに権力があり、他の王はかれに従っていた。次に続くのがアスタブラナという部族であり、その王は現在、サクライフと呼ばれている。さらにドゥラバと呼ばれる部族がおり、その王はヴァンジ=スラヴァと呼ばれる。続いてバムジンと呼ばれる部族がおり、王はアザナと呼ばれる。アル=サカーリバの中でこの部族が最も勇敢であり、乗馬においては最も卓越している。さらにマナバンと呼ばれる部族があり、王はザンビルと呼ばれる。続いてサルビンと呼ばれる部族がある。この部族は……(中略)……。続いてマラヴァと呼ばれる部族。続いてハルヴァティンと呼ばれる部族。続いてサシンと呼ばれる部族と、ハシャニンと呼ばれる部族。続いてバランジャビンと呼ばれる部族。これらの部族の王の中で名を挙げた者は、著名な名である。
 サルビンなる名で言及された部族は、王や首長が死んだ時には自らを火で焼く。同時に荷駄用の家畜も焼く。かれらにはギンダ(インド)に似た風習がある。これについては、すでにカブハ(カフカーズ)の山とハザールのついでに、ハザールの国にはアル=サカーリバとアッ=ルシヤの人々がおり、かれらが自らを火で焼くと述べた際に言及した。このアル=サカーリバの部族とその他は、東で接しており、西に広がっている。
 アル=サカーリバの王たちの第一はアッ=ディール ad-Dir である。かれには広大な諸都市と多くの人口の土地がある。ムスリム商人はかれの首都に多種多様な商品を持って訪れている。この王に続いて、アヴァンジャという王がおり、諸都市と広大な土地、多くの軍と武具を有している。かれはルーム(ビザンティン)、イフランジ、ヌカバルドやその他の民族と戦っているが、これらの戦いは決定的なものではない。次にこれらの王と接しているのがトゥルカという王である。この部族はアル=サカーリバの中でも最も美しく、数においても勝っており、最も勇敢でもある。
 アル=サカーリバは多くの部族から成る多人数の種族である。本書はその部族の叙述には立ち入らない。かつて残る王たちの服従していた王についてはすでに述べた。この王はマジャク、ヴァリナナの王であり、この部族がアル=サカーリバの根源的な部族であって、諸部族から尊崇されていて首座を占めていた。その後部族間に紛争が起こり、秩序は破壊され、かれらはそれぞれの一族に分裂してそれぞれの部族が独自の王を戴くようになった。……。

 «アル=サカーリバ al-Saqaliba» というのはアラブ語で一般的にスラヴ人を指すとされている。アル=マスーディが挙げている部族の中にも、ヴァリナナ(ヴォルィニャーネ?)、ドゥラバ(ドゥレーブィ?)、サルビン(セルブ?)、ハルヴァティン(ホルヴァート = クロアティア?)など、スラヴ系かと思われる名が挙げられている。その一部族の王としてディールという(と解釈され得る)名が記されているのである。
 ところが、アラブの叙述家たちはアル=サカーリバとは別にアッ=ルシヤなる民族について述べている。アル=マスーディも、上掲の引用部分に先立ってアッ=ルシヤについて詳述している。«アッ=ルシヤ ar-Rusiyya» とは、どう考えてもルーシのことである。ルーシとスラヴ人とが別民族だとするならば、このルーシとはヴァリャーギのことだったのではないか、とも想像されるが、ここではその問題には立ち入らない。
 ここで問題となるのは、アッ=ディールなる王がルーシの王ではなくスラヴ人の王とされている点である。ルーシとスラヴ人とが別民族と扱われている以上、スラヴ人の王であるアッ=ディールはノーヴゴロド第一年代記や『原初年代記』が言及しているディールとは別人と言うべきだろう。さらに、上掲引用部分で言及される固有名詞には、それぞれ異綴もある。ゆえにアル=マスーディは al-Dir ではなく別の文字を綴っていたという可能性も低くない。とはいえ、この名前の一致は非常に興味深い。しかも、果たしてアル=マスーディがどこまで厳密にアッ=ルシヤやアル=サカーリバを理解していたか、という問題もある(アル=マスーディ自身はルーシを見たことがない)。簡単に両者は無関係だと断じるのも早計であろうか。
 アル=マスーディの述べるアッ=ディールがディールのことだとすると、ヨアキーム年代記がアスコリドだけに、アル=マスーディがディールだけに言及しているのは、つまりアスコリドとディールがもともとペアではなかったからかもしれない。このため、学者の中にはアスコリド & ディールの関係を前後にずらす者もある。すなわち、アスコリドが先代のキエフ公であり、ディールはその後を継いだ、と考えるのである。もっとも、この順番に特段の根拠はない(?)。

 アスコリドとディールの関係を考える上で、ハザールについて見てみよう。9世紀前後のキエフとハザールの関係については、キイの項で詳述しているので、ここでは繰り返さない。キエフとハザールとが密接な関係にあったと仮定して、以下の論を進める。当然、キエフとハザールとが当時無関係であったならば、以下の論は根底から崩壊する。
 ハザール帝国は «二重王権制» という特殊な王制を敷いていた。単純化して言えば、日本における天皇と将軍の関係がハザール帝国にも存在した、ということだ。カガンは精神的・宗教的権威であり、行政的・軍事的な権限を握っていたのはベイ/ベグなどと呼ばれる人物であった。二重王権制はハザールの影響でハンガリー部族連合にも見られた(宗教的権威を «ケンデ» が、軍事的権限を «ジュラ» が握っていた)。マジャール人は830年頃まではハザール帝国の宗主権下でドン下流域に住んでいたが、その後他民族とハンガリー部族連合を形成してハザールの影響を離れ、ドニェプル下流域からドナウ下流域への移住した(この頃キエフもハンガリー部族連合の勢力圏にあったと考える学者もいる)。
 二重王権制について、922年にヴォルガ・ブルガールを訪問し、自らも当地のルーシと言葉を交わした(通訳を通じて)イブン・ファドラーンが次のような記述をその報告書の中に残している。

かれ(ルーシの王)には代官がおり、これが軍を指揮し、敵に襲い掛かり、臣下の中ではかれの代わりを務める。

これはまさに、ハザールの二重王権制におけるベイ/ベグの役割ではないだろうか。
 ここで思い起こされるのが、「ルーシの王がカガンを称していた」とする『ベルタン年代記』である。これとアル=マスーディの記述、二重王権制とをあわせて考えてみると、アル=マスーディの記述は、「アッ=ディールがカガンであり、アヴァンジャがベイだった」と理解することもできよう。すなわち、ディールが宗教的権威を体現するカガンであり、アスコリドが軍事的権限を行使するベイだった。だからこそ、ヨアキーム年代記はアスコリドのみを取り上げてディールを落としているのである(ヨアキーム年代記の記述は軍事的な行動のみ)。この二人が兄弟だったとすれば、それはちょうど卑弥呼と男弟王との関係そのままである。
 もっとも、アヴァンジャ = アスコリドと解釈できれば話は単純だが、言語学的に果たしてそれはどうだろうか。またトゥルカなる第三の王が言及されているが、かれはアスコリド & ディールに従属してはいるが別の部族の王だった、と考えると恣意的にすぎるだろうか。
 なお、繰り返すが、これはあくまでも当時キエフとハザールとが密接な関係にあったとしたら、の話である。さらに言えば、アッ=ディールがディールのことであったとしたら、そもそもアスコリドとディールが実在したとしたら、等々多数の仮定の上に立てられた仮説(と言うより推測)であるから、根拠は薄弱と言うよりほとんどないと言うべきか。

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最終更新日 30 05 2013

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