紋章(ゲルブ герб (gerb))とは何ぞや?
ここで学問的な話をしていたらきりがないし、そもそもそれだけの知識もわたしにはない。
なので、基礎的なことだけを単純化して説明しておこう。
なお、厳密に言えば、紋章学と言っても必ずしも普遍的なものではない。たとえばイギリスの紋章学とフランスの紋章学、ドイツの紋章学とでは、用語や規則などの細目が異なる場合が多々ある。本来であればここでの説明はロシアの紋章学に基いてすべきであるが(ただしロシアの紋章学はドイツの紋章学を流用している)、残念ながらわたしにはその知識がないので、とりあえず手持ちのフランスの紋章学の知識で説明している。
紋章の定義
ヨーロッパの紋章とは、日本で言う家紋や国章とは異なる。特に国章は、ロシア語では一般的に «エンブレーマ эмблема (emblema)» と言って «ゲルブ» とは区別する。
ヨーロッパの紋章は、現代のものとその発生当初のものとでは若干あり方や使用例が違ってきている。そこでまず、発生当初のものを例に定義しておこう。
ヨーロッパの紋章とは、
- 君主を象徴する模様・図形である。
- 盾の中に描かれる(つまり、盾の形をしたフレームの中に描かれる)。
- 世襲される。
君主を象徴する模様は、たとえば硬貨や旗、印章などにも描かれる。しかし厳密には、それらと紋章とは区別しなければならない。
古代ローマ帝国において、皇帝の象徴として鷲が硬貨や旗などに描かれていたからといって、それがローマ皇帝の紋章であった、と言うことはできない。
なぜなら、紋章とは «盾の中に描かれ» たものだからである。
盾に模様を描く習慣は、古代ギリシャ・ローマの時代から存在した。しかしそれらは、紋章学では «前紋章» といって紋章とは区別する。
なぜなら、それらは必ずしも君主を象徴するものではなく、ましてや世襲されなかったからである。
君主を象徴する模様が盾(の形をしたフレーム)に描かれるようになり、しかもそれが世襲されるようになったものが、紋章である。
これは、おおよそ12世紀初頭の北フランス・イングランドに発生した。当時はイングランド王は同時にフランス貴族でもあり、また多くのイングランド貴族が北フランス出身で、北フランスにも所領を持っており、しかもイングランドの宮廷言語はフランス語であったので、要は «北フランス文化圏» において紋章が発生したと言うことができよう。
紋章とは元来、ひとりひとりの貴族や君主、その個人を識別するための手段であった。
しかしこう考えてみよう。偉大なるイングランド王ヘンリー2世が、赤地に三頭の金の獅子を描いた図柄をシンボルとして使用している。この図柄はヘンリー2世個人をシンボライズしたものであったが、その子のリチャード1世獅子心王もまた同じ図柄を使用することで «私は偉大な父ヘンリー2世の子であり、その財産を相続した者である» ということを世間にアピールすることができる。かれの後を継いだ弟のジョン欠地王もこの図柄を使用する。その子ヘンリー3世もこの図柄を使用する。
このように、同じ図柄が父から子へ、つまりは土地や称号の相続者によって継承されていくと、やがて普遍化され、ひとりひとりのイングランド王の象徴というだけではなく、イングランド王権をシンボライズしたものへと意味が変わっていく。そしてこれが繰り返される中で、ついには赤地に三頭の金の獅子の図柄は、具体的な個人としてのイングランド王の象徴であると同時に、抽象的なイングランド王権の象徴、集合的なイングランド王家の象徴、さらには総体的なイングランドという国の象徴へと発展していくことになる。元来は個人の象徴であった図柄が、その称号、家系、そしてその領土(=土地、地域)の象徴としても使用されるようになっていったのである。
紋章の展開
こうして確立した紋章は、またたく間に西ヨーロッパ中に普及していった。その際重要な意味を持ったのが、ひとつは十字軍である。
かつて信じられた «紋章は十字軍から生まれた» という考えは現在ではほぼ否定されているように思われるが、その発展と普及に大きな役割を演じたであろうことは、まず間違いない。
もうひとつは、馬上槍試合である。馬上槍試合では全身を甲冑で覆ったために、文字通り誰が誰だかわからない。そのため、盾だけではなく全身の甲冑に紋章を描くことにより、甲冑の中にいるのが誰であるかを観客に示したのである。
しかし紋章は、個人を識別すると同時に、その領土を象徴するシンボルでもある。すると、ふたつ以上の領土を継承した者は、ふたつ以上の紋章をひとつの盾に組み合わせて描くようになる。
16世紀初頭のスペイン王の紋章は、レオン、カスティリャ、アラゴン、シチリア、グラナダの5つの紋章を組み合わせたものである。2世代後にはさらにオーストリア、ブルゴーニュ、ポルトガルなどが加わり、全部で12の紋章が組み合わされている。
また、«本家» と «分家»、«嫡子» と «庶子»、«男子» と «女子» を区別する方法なども編み出される(本来紋章は盾に描くものであるから、女性は紋章を持たなかった)。しかも、紋章が普及してどこの馬の骨とも知れないような末端の貴族も紋章を持ち、さらにしばらくして都市やギルドなど、君主以外の者によっても使用されるようになると、王や大貴族たちは自身の権威を視覚化するために紋章に冠をかぶせたり勲章をかけたりして、盾以外の飾りをつけることで差別化を図る。このような飾りをつけたものを «大紋章» とか «完全紋章» などと呼び、盾だけのもの(«小紋章»)とは区別する。
こうして近代に入ると、紋章には複雑で細かな規則が定められ、«紋章学»なるものが発展していく。そして近代的中央集権体制を確立した国家によって、紋章は管理されることになる。
しかし、それは同時に、紋章が複雑化していくことでもあった。これが極まると、たとえば19世紀のプロイセン王の紋章のように、50個もの紋章をひとつの盾の中に組み合わせるなどということになる。盾の周囲にいろいろ描かれるのはまだしも、盾そのものが50のパートに区分けされ、それぞれに何の関連もない別々の紋章がびっしりと描かれるのだ。これでは虫眼鏡でも持ち出してきて見るしかない。ここにおいて、もはや «個人を識別する» という紋章本来の役割は失われてしまっている。
この結果、19世紀には識別のための目印という役割は、紋章に代わって旗が担うようになっていた。これが、19世紀に国旗が急速に一般化するひとつの要因である。こんにちでは、紋章などは単なるスノビズムの問題であると言っても過言ではなかろう(あるいはイギリスは例外とすべきかもしれない)。
紋章のなかで、様々な飾りが加えられ、最も様式化され華麗になったものを «大紋章 большой герб (bol'shoy gerb)» と呼んで、盾だけの «小紋章 малый герб (malyy gerb)» とは区別している。このほかにも «中紋章» だの «完全紋章» だの様々ある。これらをひとつひとつ詳しく説明しても仕方がないので、とりあえず大紋章とはどのようなものかを説明してみよう。
一般に大紋章には次のような要素が備わる。フランス王を例に見てみよう。
- écu/щит(盾):中央に描かれる小紋章。フランス王の場合、青地に金ユリ3つ。
- collier(盾飾り):小紋章を飾る勲章(紋章の持ち主が何らかの勲章を持っている場合)。国家の紋章の場合、その国の最高勲章が描かれる。フランス王の場合、聖精霊(サン=テスプリ)勲章。
- supports/щитодержатель(盾持ち):盾の左右に描かれて、盾を支える。一般的なのは天使や獅子、ユニコーンなど。フランス王の場合、ふたりの天使。
- heaume/шлем(兜):盾の上にヘルメットが載っている。
- lambrequins/намет(布飾り):ヘルメットから左右にひらひら細い布が広がっている。
- couronne/корона(王冠):ヘルメットの上に王冠がかぶせてある。ただし当然これは王さまの場合のみ。それ以外の貴族の場合は、王冠以外のものがかぶせてある場合もある。
- pavillon/мантия(天幕):上記諸要素全体を天幕が囲っている。大紋章では必須である。このてっぺんにまた王冠が載っているのが一般的。
- devise/девиз(銘句):各家にはそれぞれ独自の «標語» があり、大紋章にはそれが書かれる。ひらひらした布に描かれるのが一般的である。
- cri de guerre(鬨の声):戦場における雄叫び。銘句と同じくひらひらした布に描かれる。ただし、フランス以外の紋章ではまず見られない。