ヴァシーリイ・ダヴィドヴィチ «グローズヌィエ・オーチ»
Василий Давыдович "Грозные Очи"
ヤロスラーヴリ公 князь Ярославский (1321-45)
生:?
没:1345
父:ヤロスラーヴリ公ダヴィド・フョードロヴィチ (ヤロスラーヴリ公フョードル・ロスティスラーヴィチ黒公)
母:?
結婚:1330
& エヴドキーヤ公女 -1342 (モスクワ公イヴァン1世・カリター)
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
エヴドキーヤ・イヴァーノヴナと | |||
1 | ヴァシーリイ | 1339- | |
2 | グレーブ | ||
3 | ロマーン |
第15世代。モノマーシチ(ヤロスラーヴリ系)。
生年は不明。その他いろいろ不明だが、ミハイール・ダヴィドヴィチの兄だったことは確かだろう。1321年に父の死でヤロスラーヴリ公位を継いだ(ミハイールはモローガを分領とした)。
1321年まではサライに居住。1330年、モスクワ公イヴァン・カリターがかれを娘婿に選んだのも、その人脈の故である。1339年、イヴァン・カリターとヴラディーミル大公位を争っていたトヴェーリ公アレクサンドル・ミハイロヴィチがサライで処刑されたのも、ヴァシーリイ・ダヴィドヴィチのコネであるとされる。
しかしイヴァン・カリターはヴラディーミル大公としてヴラディーミル大公領全土に覇権を確立しようとしており、当然その矛先はヤロスラーヴリにも向けられる。そのため後年、ヴァシーリイ・ダヴィドヴィチとイヴァン・カリターとの関係にも波風が立ったようで、ヴァシーリイ・ダヴィドヴィチがハーンにイヴァン・カリターの苦情を言ったとの記録が残っている。
1338年にトヴェーリ公に復帰したアレクサンドル・ミハイロヴィチに接近。1339年にアレクサンドル・ミハイロヴィチがウズベク・ハーンに召喚されると、ヴァシーリイ・ダヴィドヴィチもサライに同行(イヴァン・カリターはヴァシーリイ・ダヴィドヴィチのサライ行きを妨害しようと、軍を派遣した)。サライではヴァシーリイ・ダヴィドヴィチは、同じくサライに伺候した従兄弟のベロオーゼロ公ロマーン・ミハイロヴィチとともにウズベク・ハーンにイヴァン・カリターを糾弾している。
1340/41年、イヴァン・カリターが死去。次のヴラディーミル大公の座を巡って諸公がこぞってサライに詣でたが、ヴァシーリイ・ダヴィドヴィチもまたサライで反モスクワ派の論陣をはった。結局イヴァン・カリターの子セミョーン傲慢公が大公の認可状をもらった。ヴァシーリイ・ダヴィドヴィチは義理の兄(弟?)にも従属的な立場に立たされ、そのトルジョーク遠征にも従軍している。
添え名の «グローズヌィエ・オーチ» の «グローズヌィイ» は、「グロザー(雷雨・夕立)の」というのが本来の意味だが、それが転じて「威嚇的な、苛烈な、恐るべき」といった意味となった。«オーチ» は目。ゆえに «恐眼公» と訳しても良かったのだが、イヴァン・グローズヌィイが «雷帝» と訳されているのにちなんで、ここでは «雷眼公» と訳しておいた。たぶんこんな訳語はほかにないと思うが、何となくニュアンスは伝わるものと思う。
なお、同じ添え名の持ち主に、トヴェーリ公ドミートリー・ミハイロヴィチがいる。