セミョーン・フョードロヴィチ・クールブスキイ
Семен Федорович Курбский
公 князь
ボヤーリン боярин (1515-)
生:?
没:1528
父:クールバ公フョードル・セミョーノヴィチ (クールバ公セミョーン・イヴァーノヴィチ)
母:?
結婚:?
子:なし
第20世代。モノマーシチ(ヤロスラーヴリ系)。モスクワ大公の勤務公。
父の後を継いで西シベリア進出に活躍した。
1499年、ユーグラ遠征。ペチョラ河下流域(現コミ共和国)を進み、要塞を建設。スキーを履いてウラル山脈を越え、オビ河下流域(現テュメニ州ハントィ=マンシ自治管区)に進出。ユーグラ人(ハントィ・マンシ)の集落を攻略し、多数の捕虜を獲得し、モスクワへの貢納を強制して、1501年にモスクワに帰還した。
1506年のカザン遠征にも従軍するが、これは失敗に終わった。
その後は西方・南方でリトアニアとの戦いに従事する。
1507年と12年、ヴェリーキエ・ルーキからリトアニア遠征を指揮。スモレンスク遠征(1513-14)に従軍。1516年からはヴィテブスクへ侵攻し、リトアニアと戦う。1519年にもリトアニアと戦い、スタロドゥーブの代官に任じられた。ここからヴィリニュスにまで遠征している。
1523年にはヴァシーリイ3世の下でニージュニイ・ノーヴゴロド遠征に従軍。翌24年には再びカザン遠征を指揮。
ヴァシーリイ3世と妃ソロモーニヤ・サブーロヴァとの離婚に反対し、このため失寵。
1528年、ニージュニイ・ノーヴゴロド総督。