アンドレイ・ミハイロヴィチ・クールブスキイ
Андрей Михайлович Курбский
公 князь
ボヤーリン боярин
生:1528頃
没:1583.05
父:ミハイール・ミハイロヴィチ・クールブスキイ公 (ミハイール・フョードロヴィチ・クールブスキイ公)
母:マリーヤ・ミハイロヴナ・トゥーチコヴァ=モローゾヴァ
結婚①:
& エヴフロシーニヤ
結婚②:1571(離婚)
& マリーヤ公女 -1586 (ユーリー・イヴァーノヴィチ・ゴリシャンスキイ公)
結婚③:1579
& アレクサンドラ (ピョートル・セマーシュコ)
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
エヴフロシーニヤと | |||
? | 1554- | ||
アレクサンドラと | |||
マリーナ | 1580- | ||
ドミートリイ | 1582- |
第22世代。モノマーシチ(ヤロスラーヴリ系)。ロシア貴族。
1540年代から50年代にかけて、イヴァン雷帝の側近のひとり。1547年以降の政策を取り仕切った «イーズブランナヤ・ラーダ Избранная рада» のメンバーでもあった(リーダーはアダーシェフ)。
1545年から52年のカザン遠征にも従軍。1550年にはプロンスクの総督を務め、1552年、デヴレト=ギレイ率いるクリム・ハーン軍を撃退する。
その後もトゥーラ、カルーガ、セールプホフなどで軍を指揮し、クリミア・タタール軍と戦う。
1560年、アダーシェフとシリヴェストルが失脚した後も、アンドレイ・ミハイロヴィチ公はイヴァン雷帝の側近としてとどまる。
«イーズブランナヤ・ラーダ» はクリム・ハーン国を主要な敵として南方への進出を目指していて、バルト海への進出を図ったイヴァン雷帝の政策に反対していた。アダーシェフとシリヴェストルの失脚もこれが原因で、アンドレイ・ミハイロヴィチも同じ立場だったが、1560年、リヴォニア戦争の総司令官の任命を受ける。
リヴォニア戦争は、権力の空白地となったリヴォニアの宗主権・領有権を巡るモスクワ、ポーランド=リトアニア、スウェーデンの三つ巴の争いだった。
1563年、年代記の伝えるところによると、リヴォニア駐留スウェーデン軍の司令官が、秘密裏にアンドレイ・ミハイロヴィチに接触。一部領土を割譲して共同戦線を採ることを提案してくるが、この司令官はリトアニア軍に捕らえられる。この時、アンドレイ・ミハイロヴィチがこの司令官を売ったのだという噂がモスクワに流れたらしい。
1563・64年、ポーロツク近郊でポーランド軍に大敗を喫する。
この頃、モスクワでは、イヴァン雷帝の中央集権化政策に反発する大貴族が弾圧される(オプリーチニナ体制の創設は1565年)。しかもアンドレイ・ミハイロヴィチ自身、ユーリエフ(現タルトゥ、エストニア)の司令官に降格される。
先の噂と敗北が原因で、いずれ失脚、さらにあるいは処刑へと進むことを怖れたアンドレイ・ミハイロヴィチは、ポーランド=リトアニア王ジグムント2世・アウグストからの誘いに乗り、1564年、ユーリエフからリトアニア領リヴォニアへと亡命。当地のドイツ人には捕虜として扱われたが、やがてリトアニア本国に送られた。
アンドレイ・ミハイロヴィチはジグムント2世に、リヴォニアのモスクワ派と、ポーランド=リトアニア宮廷内の «スパイ» についての情報を与える。
その直後、妃エヴフロシーニヤと息子が死去。
リトアニアとヴォルィニに広大な領土をもらったアンドレイ・ミハイロヴィチは、以後、リトアニア軍を率いてモスクワ領に侵攻。さらに1565年には大軍を率いてモスクワ進撃を図った。またジグムント2世に、デヴレト=ギレイとの同盟を進言してもいる。
もともとマクシム・グレークの影響を受け、モスクワ時代からその学識で知られた教養人だった。1564年から15年間にわたり、イヴァン雷帝との間で多くの書簡を交わして論争。分領公や世襲領主貴族の権利を侵害して中央集権化を推進するイヴァン雷帝の政策を批判し、さらに『モスクワ大公の歴史』を著してその主張を歴史的に検証してみせてさえいる。
エラスムスなど西欧の思想家の著書をロシア語に翻訳したりもしている。