ヴァシリコ・ロマーノヴィチ
Василько (Василий) Романович
ベリズ公 князь Бельзский (1207-10)
ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公 князь Владимирский (1211、31-69)
ペレソープニツァ公 князь Пересопницкий (1227-38)
ルーツク公 князь Луцкий (1230)
生:1203
没:1269・65・71
父:ガーリチ=ヴォルィニ公ロマーン偉大公 (ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ)
母:アンナ
結婚①:1226
& ドブラーヴァ公女 -1265 (ヴラディーミル大公ユーリイ・フセヴォローディチ)
結婚②:1248
& エレーナ -1265 (ポーランド王レシェク1世白髪王) ※そんな娘はいない
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
ドブラーヴァ・ユーリエヴナと | |||
1 | ヴラディーミル | -1289 | ヴォルィニ |
2 | ムスティスラーフ(ユーリイ?) | ||
エレーナ・レシュコヴナと | |||
3 | オリガ | チェルニーゴフ公アンドレイ |
第12世代。モノマーシチ(ヴォルィニ系)。
ソロヴィヨーフに言わせれば、終生にわたって兄ダニイール・ロマーノヴィチの唯一無二の同盟者。兄弟間の争いが常だったリューリコヴィチにあって、希有とも言える仲のいい兄弟だったが、それもおそらくはヴァシリコ・ロマーノヴィチの性格に由来するものと言えよう。
1205年、父ロマーン偉大公が死去。ダニイールとヴァシリコのロマーノヴィチ兄弟が父の遺領をどう分割したのか、あるいは分割せず共同統治したのか、あるいは兄であるダニイールが単独で統治したのか、よくわからない。もっとも、兄ダニイールですらまだ4歳、ヴァシリコは2歳の幼児である。現実には遺領は母后や父の側近のボヤーリンたちが統治したのだろう。
南ルーシ一帯を制圧していた父が死に、しかも遺児ロマーノヴィチ兄弟がまだ幼かったことで、各地の諸公が一斉に蜂起し、ガーリチ=ヴォルィニに野心を燃やす。
1205年と06年の2度にわたりキエフ大公リューリク・ロスティスラーヴィチ、チェルニーゴフのスヴャトスラーヴィチ兄弟とイーゴレヴィチ兄弟がガーリチに侵攻。1205年には駐屯していたハンガリー軍がこれを撃退したが、1206年にはロマーノヴィチ兄弟は母后に連れられてヴラディーミル=ヴォルィンスキイに逃亡。ガーリチはイーゴレヴィチ兄弟に奪われた。
さらに勢いに乗るイーゴレヴィチ兄弟はヴォルィニにも侵攻。ロマーノヴィチ兄弟は母后に連れられ、今度はポーランドに逃亡。ヴラディーミル=ヴォルィンスキイも失われ、兄ダニイールはハンガリーに送られて、ヴァシリコ・ロマーノヴィチは母親とともにポーランド王レシェク1世白髪王の庇護を受けた。
1207年、レシェク白髪王はヴォルィニに侵攻。ヴラディーミル=ヴォルィンスキイからイーゴレヴィチ兄弟を追い、ベリズ公アレクサンドル・フセヴォローディチにヴラディーミル=ヴォルィンスキイを与え、ヴァシリコ・ロマーノヴィチにベリズを与えた(ベリズの住民が自らヴァシリコ・ロマーノヴィチを招いたとも言われる)。
1211年、ハンガリー軍がガーリチに侵攻。イーゴレヴィチ兄弟を追って、兄ダニイール・ロマーノヴィチがガーリチ公となり、母后もベリズからガーリチに移った。さらに兄はアレクサンドル・フセヴォローディチに代わってヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公にもなり、名実共にガーリチ=ヴォルィニの支配者となった。
なお、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公になったのは兄ではなくヴァシリコ・ロマーノヴィチだとする説もある。おそらくどちらでも同じことだったろう。まだ幼いロマーノヴィチ兄弟が、肩書きが何であれ、自分の意志で統治したわけではあるまい。
しかしガーリチ情勢は落ち着かなかった。ガーリチ貴族の抵抗、ハンガリー王アンドラーシュ2世の野心、そして周辺諸公の思惑が絡み合い、ダニイール・ロマーノヴィチと母后は1212年には再びハンガリーに亡命した。混乱の余波はヴォルィニにも及び、ヴァシリコ・ロマーノヴィチもベリズ(ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ?)を追われ、カーメネツに逃亡する。やがてアンドラーシュを見限った兄もカーメネツにやってきた。
1213年(?)、レシェク白髪王がアレクサンドル・フセヴォローディチを強制して、ロマーノヴィチ兄弟にティホームリとペレムィシュリ(ガーリチのペレムィシュリではなくヴォルィニのペレムィシュリ)を割譲させた。ロマーノヴィチ兄弟は母とともにペレムィシュリに居住した。
さらに1214年(?)、レシェク白髪王はヴラディーミル=ヴォルィンスキイとペレムィシュリ(ガーリチの)をダニイール・ロマーノヴィチに与えた。以後、ロマーノヴィチ兄弟はヴラディーミル=ヴォルィンスキイを失うことなく、これがガーリチ=ヴォルィニ制圧の拠点となる。
しかしレシェク白髪王は単に善意からロマーノヴィチ兄弟の庇護者を気取っていたわけではない。ロマーノヴィチ兄弟を支援しつつ、ヴォルィニの辺境部を徐々に侵食していた。また1215年にはスモレンスク系のムスティスラーフ幸運公を招き、ハンガリーの勢力を駆逐してガーリチを占領させている。
1216年、ロマーノヴィチ兄弟はレシェク白髪王からヴォルィニ辺境部を奪回。これに怒ったレシェク白髪王はアンドラーシュと手を結び、ガーリチに侵攻。同時にアレクサンドル・フセヴォローディチもヴラディーミル=ヴォルィンスキイ奪回の軍を興した。
1218年、ムスティスラーフ幸運公が再びガーリチに侵攻。1219年にはこれを占領した。これに乗じて、ロマーノヴィチ兄弟もアレクサンドル・フセヴォローディチを破り、ムスティスラーフ幸運公の仲介でベリズの領有は認めて講和した。
ハンガリーとポーランドの脅威が一応取り除かれると、今度はガーリチを支配するムスティスラーフ幸運公との関係が悪化する。アレクサンドル・フセヴォローディチ、さらにはスモレンスク系諸公も絡んで、ガーリチ=ヴォルィニ情勢はなかなか鎮まらなかった。
1226年、ムスティスラーフ幸運公はハンガリーと結び、ガーリチは再びハンガリーの支配下に入った。レシェク白髪王も1227年に死に、ロマーノヴィチ兄弟はしばらくガーリチへの手出しを控えざるを得なかった。
その間、ヴォルィニにおける勢力固めには積極的だった。1226年にムスティスラーフ聾唖公が死ぬと、1227年にはその遺領ルーツクとペレソープニツァを占領。
1228年、キエフ大公ヴラディーミル・リューリコヴィチ、チェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチ、ポーロヴェツ人のコテャンの同盟軍のヴォルィニ侵攻を撃退。
そして1229年、ダニイール・ロマーノヴィチはついにガーリチを奪回した。従前通りダニイール・ロマーノヴィチはガーリチに赴き、ヴァシリコ・ロマーノヴィチがヴォルィニを統治した。
1229年、ヴァシリコ・ロマーノヴィチはポーランド情勢に介入し、マゾフシェ公コンラトを援け、シロンスク公ヘンリク美髭王を追い、コンラトをポーランド王とした。
1230年、アレクサンドル・フセヴォローディチがガーリチ貴族と共謀して兄の追放を企む。ヴァシリコ・ロマーノヴィチはベリズを攻略し、アレクサンドル・フセヴォローディチを追った。
しかしハンガリーに逃亡したアレクサンドル・フセヴォローディチは、ハンガリー王アンドラーシュ2世の支援を得て、ガーリチに侵攻。これを占領し、さらにヴラディーミル=ヴォルィンスキイを攻囲。ヴァシリコ・ロマーノヴィチはアレクサンドル・フセヴォローディチにベリズとチェルヴェニを与えて講和した。
ロマーノヴィチ兄弟はハンガリー王子アンドラーシュ(王アンドラーシュ2世の子)の軍をトルチェスクで破り、ヴォルィニからハンガリー軍を追う。さらに1232年には、かつて対立したキエフ大公ヴラディーミル・リューリコヴィチ、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ、さらにポーロヴェツ人とも同盟を結ぶ。この外交的成功に支えられ、1233年にはガーリチを徐々に侵食。アンドラーシュを都市ガーリチに追い詰めた。
ガーリチ貴族はアレクサンドル・フセヴォローディチに内応を呼び掛け、アレクサンドル・フセヴォローディチが変心。しかし結局、アンドラーシュが死に、ガーリチ貴族がダニイール・ロマーノヴィチの公位を認めて、都市ガーリチは陥落。内戦は終結した。アレクサンドル・フセヴォローディチもキエフに逃亡する直前に捕らえられ、以後アレクサンドル・フセヴォローディチの脅威は消えた(おそらく獄死したものと思われる)。
ちなみにアレクサンドル・フセヴォローディチの没落で、ヴォルィニにはロマーノヴィチ兄弟以外の公はいなくなった。もっとも、イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチの子孫がいたとする説もあるが、いたとしても泡沫諸公でしかなく、事実上ヴァシリコ・ロマーノヴィチがヴォルィニ全土の唯一の支配者になったと言ってもいいだろう。
1233年、キエフ大公ヴラディーミル・リューリコヴィチと同盟した兄が、チェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチとの戦争を開始。しかし敗北し、1235年にはヴラディーミル・リューリコヴィチが捕虜となった。
兄がガーリチに逃げ帰ると、勢いに乗ったチェルニーゴフ軍はイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチに率いられてガーリチに侵攻。ヴァシリコ・ロマーノヴィチが迎え撃つが、ガーリチ貴族が蜂起。兄はハンガリーに逃亡し、ミハイール・フセヴォローディチがガーリチ公となった(イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはキエフ大公になった)。
さらにヴォルィニに侵攻するミハイール・フセヴォローディチとイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチを、ヴァシリコ・ロマーノヴィチは撃退し、ヴォルィニを護り抜いた。
その後兄は両者と講和し、ペレムィシュリ(ガーリチの)をもらっている。
1238年、兄とミハイール・フセヴォローディチの対立が再燃。兄がガーリチを奪い返した。
1240年、モンゴルがヴォルィニに襲来。この時ヴァシリコ・ロマーノヴィチは妻子を連れてポーランドに逃亡。モンゴルの撤収後に帰国した。
この混乱に乗じて、1241年にリトアニアがヴォルィニに侵攻。ヴァシリコ・ロマーノヴィチはリトアニア軍を撃退する。さらにロスティスラーフ・ミハイロヴィチ(ミハイール・フセヴォローディチの子)をガーリチから追う。
1245年、ポーランド王位を追われたマゾフシェ公コンラトを支援し、ポーランド王ボレスワフ5世童貞王と戦う。さらに甥レフ・ダニイーロヴィチと共同でロスティスラーフ・ミハイロヴィチと戦い、さらにコンラトを援けてリトアニア人と戦う。
その後も連年のように、ポーランドやリトアニアと戦った。
1249年、ミンダウガスに領土を没収されて逃れてきたリトアニアのタウトヴィラス、エディヴィダス、ヴィキンタスら諸侯を兄弟そろって支援し(兄はタウトヴィラスの娘/妹と再婚した)、ミンダウガスと戦う。リヴォニア騎士団やサモギティア人とも同盟したが、ミンダウガスがカトリックに改宗するとリヴォニア騎士団が同盟から脱落。結局1254年に兄はミンダウガスと講和し、タウトヴィラスにはポーロツク公位を与えた。
1257年、兄はハーンの代官クレムサに反抗。1259年、クレムサ軍がヴラディーミル=ヴォルィンスキイに侵攻するが、これを防ぐ。
1260年、別の代官ブルンダイがリトアニア侵攻の途上、領土通過を求めてくる。兄にはクレムサとの行きがかりがあるため、代わりにヴァシリコ・ロマーノヴィチがブルンダイ軍に合流し、リトアニア侵攻に従軍した。
1261年、ブルンダイは、全都市の破却を求めてきた。ヴァシリコ・ロマーノヴィチは、イストジェク、リヴォーフ、クレメネツ、ルーツクを破壊。さらにヴラディーミル=ヴォルィンスキイの防御施設の破壊も余儀なくされた。以後、ヴァシリコ・ロマーノヴィチはブルンダイの無理難題に付き合わされることになる。
1263年、リトアニア王ミンダウガスがサモギティア公トレニオタに暗殺される。ヴァシリコ・ロマーノヴィチは、甥シュヴァルン・ダニイーロヴィチとともに、遺児ヴァイシュヴィルカスを支援し、リトアニア大公位を確保した。以後しばらく、リトアニアはガーリチ=ヴォルィニに依存することになる(ヴァイシュヴィルカスはヴァシリコ・ロマーノヴィチを «父であり主» と呼んでいる)。
1264年、兄が死去。これまでのリューリコヴィチの慣習に従えば、ヴァシリコ・ロマーノヴィチが最年長者として全ガーリチ=ヴォルィニの主権者となっていいはずだが、これまで通りヴォルィニだけを支配し、ガーリチは甥のレフとシュヴァルンのダニイーロヴィチ兄弟が分割した。
1269年、修道士に。以後の消息は不明。
ヴラディーミル=ヴォルィンスキイに葬られる。