ロマーン・ムスティスラーヴィチ «ヴェリーキイ»
Роман Мстиславич "Великий"
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1168-70)
ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公 князь Владимирский (1173-88、88-1205)
ガーリチ公 князь Галицкий (1188、99-1205)
生:?
没:1205.06.19−ザヴィホスト(ポーランド)
父:ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ (ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ)
母:アグニェシュカ (ポーランド王ボレスワフ3世唇曲王)
結婚①:1183?
& プレツラーヴァ公女 (キエフ大公リューリク・ロスティスラーヴィチ)
結婚②:1197?
& アンナ (ハンガリー王アンドラーシュ2世? 皇帝イサアキオス2世・アンゲロス?)
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
プレツラーヴァ・リューリコヴナと? | |||
1 | フェオドーラ | ヴァシリコ・ヴラディーミロヴィチ | |
2 | エレーナ | チェルニーゴフ公ミハイール | |
アンナと | |||
3 | ダニイール | 1201-66 | ガーリチ |
4 | ヴァシーリイ | 1203-65 | ヴォルィニ |
第11世代。モノマーシチ(ヴォルィニ系)。洗礼名ボリース?
生年は不明。父には(少なくとも)3人の息子がいたが、おそらくスヴャトスラーフ、ロマーン、フセーヴォロドの順であったと考えられる。
Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 は父の死後、1170年から73年までスヴャトスラーフがヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公であり、ロマーンがヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公となったのは1173年から、としている。その他の系図類もほぼ同じである。
ところがその一方で、いずれの歴史書を見ても父の跡を継いだのはロマーン・ムスティスラーヴィチだとしている(Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 も本文ではそう記述している)。スヴャトスラーフは公であったとしても何ら実績を残していないので、面倒なので言及しないのだろう。
両親の結婚が1150年前後とされているので、ロマーン・ムスティスラーヴィチが長男であれ次男であれ、生年は1150年代前半と考えて間違いではなかろう。
幼少期はポーランドで過ごしたらしい。
1168年、父がキエフ大公となると、ノーヴゴロド公とされる。
1169年、父が、ヴラディーミル=スーズダリ公アンドレイ・ボゴリューブスキイによりキエフから追われる。アンドレイ・ボゴリューブスキイはさらにノーヴゴロドからロマーン・ムスティスラーヴィチを追おうと、息子ムスティスラーフに率いさせ、大軍を派遣した(これにはスモレンスク公ロマーン・ロスティスラーヴィチ、ムーロム公ユーリイ・ヴラディーミロヴィチ、リャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチも軍を派遣している)。ロマーン・ムスティスラーヴィチはノーヴゴロドに籠って徹底抗戦を続け、ついにはこれを撃退した。
1170年、父が死去。ロマーン・ムスティスラーヴィチはノーヴゴロドを棄て、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公位を継いだ。なおヴォルィニにはほかに叔父ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチがルーツクを分領としていた。
上述のように、Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 は、見出しではロマーン・ムスティスラーヴィチがヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公となったのは1173年からとしているにもかかわらず、本文では1170年に父の跡を継いだと記している。これまた上述のように、これはただ単に公としての事績が伝えられていないスヴャトスラーフ・ムスティスラーヴィチについて、わざわざ言及するのを避けただけのことではないかと思われる。
1170年にロマーン・ムスティスラーヴィチがノーヴゴロドを去ったのは確かなので、ヴォルィニに戻ったのは間違いあるまい。とするならば、おそらくヴォルィニはムスティスラーヴィチ兄弟によって3分割されたのだろう。一般的に末弟フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチはこの時ベリズを分領としてもらったとされている。ロマーン・ムスティスラーヴィチについては特にどこかの分領をもらったとは伝えられていないが、わざわざノーヴゴロドから帰国したくらいだから、分領がなかったとも考えづらい。
ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公となったロマーン・ムスティスラーヴィチは、以後15年間にわたって、リトアニア人やヤトヴャーギ人の襲撃に対する防御と都市建設に専念したという。ヴラディーミル=ヴォルィンスキイが都市として発展したのはこの時代とされ、石造建築もこの時代からである(それまでは木造であった)。
ヤトヴャーギ人とは、ヨトヴィンギア人、スドヴィア人などとも呼ばれるバルト系民族。言語的には西バルト系に属し、プルシ語の同族。その居住地は現リトアニア南西部から、一部現ポーランド北東部にもかかっている。ルーシでは、隣接するポーロツクやヴォルィニ、またノーヴゴロドへの略奪、あるいはそれらによる攻略で知られる。のち、リトアニア人の国家建設、ドイツ騎士団(プロイセン)の拡張などにより、周辺諸民族に吸収され、消滅した。
1187年、ガーリチ公ヤロスラーフ・オスモムィスルが死去。しかしその後、ガーリチでは混乱が続いた。庶子オレーグを嫡子ヴラディーミルが追い出すが、そのヴラディーミル・ヤロスラーヴィチもボヤーリンたちと対立。ボヤーリンたちはロマーン・ムスティスラーヴィチに接近した。
ロマーン・ムスティスラーヴィチは娘をヴラディーミル・ヤロスラーヴィチの長男に嫁がせていたものの、ガーリチのボヤーリンたちと通謀。1188年、ガーリチのボヤーリンたちがヴラディーミル・ヤロスラーヴィチを追い、ロマーン・ムスティスラーヴィチがガーリチ公として迎えられた。ヴラディーミル=ヴォルィンスキイには弟フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチを残した。
ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチはハンガリーに逃亡し、王ベーラ3世の支援を得て帰還する。ロマーン・ムスティスラーヴィチは戦わずにガーリチを明け渡し、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイに帰還した。
しかしヴラディーミル=ヴォルィンスキイでは、フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチに入城を拒まれる(ロマーン・ムスティスラーヴィチは弟にヴラディーミル=ヴォルィンスキイを与えるに際して、「もうこの都市はおれには不要だ」と言っていた)。ロマーン・ムスティスラーヴィチはポーランドに赴き、その援助を得てヴラディーミル=ヴォルィンスキイに侵攻するが弟に敗北した。ロマーン・ムスティスラーヴィチはオーヴルチの義父リューリク・ロスティスラーヴィチのもとに身を寄せた。
リューリク・ロスティスラーヴィチはロマーン・ムスティスラーヴィチにトルチェスクを与えると同時に、フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチに圧力をかけた。フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチはこれに屈してベリズに帰還。ロマーン・ムスティスラーヴィチはヴラディーミル=ヴォルィンスキイを奪還することができた。
1194年、キエフ大公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチが死去。リューリク・ロスティスラーヴィチが後を継いだ。
リューリク・ロスティスラーヴィチはロマーン・ムスティスラーヴィチに、キエフ公領のトルチェスク、トリポーリ、コルスニ、ボグスラーフ、カーネフの5都市を与えようとしたが、これにヴラディーミル=スーズダリ公フセーヴォロド大巣公が反発。リューリク・ロスティスラーヴィチは5都市をフセーヴォロド大巣公に与え、フセーヴォロド大巣公はトルチェスクをリューリク・ロスティスラーヴィチの長男ロスティスラーフに与えた。
結局この一連の経緯を、トルチェスクをロマーン・ムスティスラーヴィチではなく息子に与えたいがためにリューリク・ロスティスラーヴィチがフセーヴォロド大巣公と仕組んだ狂言ではないかと疑ったロマーン・ムスティスラーヴィチは、リューリク・ロスティスラーヴィチと敵対するようになった。
キエフとスモレンスク(本領)のリューリク・ロスティスラーヴィチ、ヴラディーミル=スーズダリのフセーヴォロト大巣公、ガーリチのヴラディーミル・ヤロスラーヴィチを敵にまわして孤立することになったロマーン・ムスティスラーヴィチは、当時唯一リューリク・ロスティスラーヴィチと対立していたチェルニーゴフ公ヤロスラーフ・フセヴォローディチ以下のオーリゴヴィチ一族に接近する。
なお、これにより、この頃リューリク・ロスティスラーヴィチの娘と離婚したらしい(1197年とする文献がある)。
ポーランドは、1138年の祖父ボレスワフ唇曲王の死後、その諸子によって分割され、最年長者が首都クラクフを支配していた(キエフ・ルーシがヴラディーミル偉大公の諸子によって分割され、最年長者がキエフを支配したように)。しかしクラクフを巡り、またそれぞれの領土を巡り、兄弟間での争いが続いており、1194年にはクラクフを支配していたサンドミェシュ公カジミェシュ正義王が死去。遺児レシェク白髪王が跡を継ぐが、まだ7歳の幼児であり、68歳になるその伯父のヴィェルコポルスカ公ミェシュコ老王がクラクフを狙って甥と争う。
ロマーン・ムスティスラーヴィチにとって、ミェシュコ老王は伯父、レシェク白髪王は従兄弟だったが、おそらくヴォルィニにとって言わば反対側に位置するヴィェルコポルスカよりも隣接するサンドミェシュを押さえようとの考えだったのか、レシェク白髪王を支援。1195年にはポーランドに遠征してミェシュコ老王と戦っている。
単純に図式化すると、ポーランドは、中南部が首都クラクフを擁するマウォポルスカ(小ポーランド)、西部がヴィェルコポルスカ(大ポーランド)、東部がマゾフシェ(ここにワルシャワがある)、北部がポモージェ(ポンメルン、ポメラニア)となる。マウォポルスカの東方がサンドミェシュで、西方がシロンスク(シュレージエン、シレジア)である。
1196年、ロマーン・ムスティスラーヴィチはキエフ公領を蹂躙。これに対してヴラディーミル・ヤロスラーヴィチが、続いてロスティスラーフ・リューリコヴィチが、相次いでヴォルィニを蹂躙した。
この年、ヤロスラーフ・フセヴォローディチとの戦いを通じてリューリク・ロスティスラーヴィチとフセーヴォロド大巣公の関係が悪化。リューリク・ロスティスラーヴィチはヤロスラーフ・フセヴォローディチとの協調路線に転じ、他方でフセーヴォロド大巣公がロマーン・ムスティスラーヴィチに接近した。
こうして形成は一気に逆転し、西のロマーン・ムスティスラーヴィチ、北のフセーヴォロド大巣公、東のヤロスラーフ・フセヴォローディチが同盟してリューリク・ロスティスラーヴィチを包囲する体制ができあがった(ただしヤロスラーフ・フセヴォローディチは1198年には死んでしまい、この包囲網も長続きしなかった)。
1199年(98年?)、ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチが死去。ロマーン・ムスティスラーヴィチはレシェク白髪王の支援を得てガーリチを征服し、ヴォルィニとガーリチを統合した。
ポーランドの史料によると、ロマーン・ムスティスラーヴィチは残虐な君主であったという。実際、ガーリチのボヤーリンたちを大量に処刑し、あるいは追放した。しかしそれゆえにこそ、代々の公に反抗し続けるガーリチのボヤーリンを抑えつけて叛乱を起こさせなかったとも言える。
ヴラディーミル・モノマーフの死後、これほどの領土をひとりで支配した公はいない。しかもそれがヴォルィニとガーリチという、政治的にも経済的にも軍事的にも、諸公領の中でも図抜けて強力な公領である。その自覚もあったのか、キエフ大公やヴラディーミル大公(フセーヴォロド大巣公がそう自称していたとして)と並び立つとの意識からか、自ら «大公» を称したとする説もある。
1201年、コンスタンティノープルから逃亡してきたアレクシオス・アンゲロスを迎え入れる。アレクシオス・アンゲロスは、その後ドイツ王フィリップ・フォン・シュヴァーベンのもとへと去っていった。
ビザンティン帝国では1195年に皇帝イサアキオス2世・アンゲロスが兄アレクシオス・アンゲロスのクーデタで廃位され、投獄された。イサアキオス2世の息子アレクシオスも父とともに投獄されている。ロマーン・ムスティスラーヴィチのもとに身を寄せたのは、甥の方である。
ちなみに、のち、第4回十字軍のおかげでイサアキオス2世は復位を果たし、その死後、甥のアレクシオスがアレクシオス4世として跡を継いでいる。
ロマーン・ムスティスラーヴィチの後妻はビザンティン皇女と言われるが、アンゲロス家にはそれらしい娘は存在しない。もっとも彼女の素性については様々な説があり、ハンガリー王女とするものもあれば、ポーランドと結びつけるものも、地元ボヤーリンの娘とするものもある。ただしイサアキオス2世の後妻はハンガリー王ベーラ3世の娘であり、ベーラ3世の先妻は皇帝マヌエル1世・コムネノスの一族なので、ビザンティン皇女という説とハンガリー王女という説とは必ずしも矛盾しない。
1202年、チェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公と同盟し、リューリク・ロスティスラーヴィチがガーリチ=ヴォルィニへの侵攻を計画。しかしロマーン・ムスティスラーヴィチは先手を打って、逆に自らキエフ公領に侵攻した。かつてはロマーン・ムスティスラーヴィチを(一時的に)孤立させたリューリク・ロスティスラーヴィチだったが、年代記の伝えるところによると、今回は全ルーシにそっぽを向かれたという。
ロマーン・ムスティスラーヴィチはリューリク・ロスティスラーヴィチからの講和要請を受け入れた。フセーヴォロド大巣公の同意を取り付けた上で、リューリク・ロスティスラーヴィチをオーヴルチに追い、キエフ大公には従兄弟のルーツク公イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチを据えた(なお、「フセーヴォロド大巣公の同意」云々は、ヴラディーミル系の年代記作家が自分たちの公を大きく見せるために書いただけのことだとする説もある)。
ロマーン・ムスティスラーヴィチはさらにステップに遠征し、ポーロヴェツ人を破る。
1203年、リューリク・ロスティスラーヴィチがキエフに侵攻。イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチを追ったが、自らはオーヴルチに引き返した。ロマーン・ムスティスラーヴィチはオーヴルチに侵攻するものの、フセーヴォロド大巣公がリューリク・ロスティスラーヴィチと和解したため、リューリク・ロスティスラーヴィチのキエフ大公位を認めざるを得なかった。
しかしこの年、ポーロヴェツ人への遠征を終えて、リューリク・ロスティスラーヴィチとの対立が再燃。ロマーン・ムスティスラーヴィチはリューリク・ロスティスラーヴィチを捕らえ、妻と娘共々強制的に修道士としてしまう。さらにその子ロスティスラーフとヴラディーミルをガーリチに拘禁した。
こうしてロマーン・ムスティスラーヴィチは、ヴォルィニ、ガーリチ、キエフを自身のものとし、チェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公をも圧倒して、南ルーシに覇権を確立した。
1204年、教皇インノケンティウス3世から、ローマ・カトリックへの改宗を条件にルーシの王冠を提供されるが、拒否。この話はタティーシチェフが伝えているだけだが、広く知られている。年代記的な裏づけは存在しないが、当時は教皇の至上権を確立するためにローマ教皇が各地の諸侯に王冠をバラまいていた時期なので、可能性は否定できない(インノケンティウス3世自身、まさに1204年にブルガリア公に王冠を授けている)。ただし、ポーランドの年代記によると、ロマーンは自身ルーシの王を自称していたという。
1205年、理由は不明ながら、長年の同盟相手であったレシェク白髪王と対立。サンドミェシュに侵攻し、ルブリンを攻囲する。これに対してレシェク白髪王は、弟のマゾフシェ公コンラトとともに迎撃。ロマーン・ムスティスラーヴィチはヴィスワ河を越えてこれを迎え撃とうとするが、サンドミェシュ近郊のザヴィホストにて待ち伏せを受け、戦死。
歴史書の中には、ロマーン・ムスティスラーヴィチの子孫を «ロマーノヴィチ» と呼んで、他のヴォルィニ系と区別するものもある。