ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチ

Ингварь Ярославич

ルーツク公 князь Луцкий (1180-)
キエフ大公 великий князь Киевский (1202, 14)
ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公 князь Владимирский (1207)

生:?
没:?

父:ルーツク公ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ
母:?

結婚:?

子:

生没年
母親不詳
1グレミスラーヴァ-1258ポーランド王レシェク1世白髪王
イジャスラーフ-1223ドロゴブージュ
スヴャトスラーフ-1223シュムスク
2ヤロスラーフペレムィシュリ
ヴラディーミル-1229

第11世代。モノマーシチ(ヴォルィニ系)。

 いろいろと不明だが、父親が1130年頃の生まれと想像されること、従兄弟も1150年頃の誕生であること、等から、ヤロスラーヴィチ兄弟の生年も、早くて1150年頃と見ていいだろう。下限は当然父の死だろうが、1180年代からポツポツと年代記に登場することも考えると、1170年頃までには生まれていたと見ていいだろう。
 父の没年もよくわからないが、一般にイングヴァーリ・ヤロスラーヴィチがルーツク公位を継いだとされている。つまり、イングヴァーリがヤロスラーヴィチ兄弟の長兄だと見られているということだろう。

 従兄弟のヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ロマーン偉大公は、すでに1194年からキエフに対して大きな影響力を行使していた。さらにヴラディーミル=スーズダリ公フセーヴォロド大巣公と結び、1199年にはガーリチを併合して、その影響力をさらに強めている。
 1202年、ロマーン偉大公はキエフからリューリク・ロスティスラーヴィチを追い、イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチをキエフ大公位とした。ロマーン偉大公自身は獲得したばかりのガーリチの経営に忙しかったのか、キエフ大公位には関心がなかったのか、あるいはフセーヴォロド大巣公の反発を怖れたのか(イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチの大公位就任にも、フセーヴォロド大巣公の同意を取り付けているらしい)。
 しかし早くも翌1203年には、オーリゴヴィチ一族やポーロヴェツ人と結んだリューリク・ロスティスラーヴィチにキエフを奪い返され、イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチはルーツクに逃げ帰った。

 1205年、ロマーン偉大公が死去。その遺児ダニイール・ロマーノヴィチはまだ幼く、ガーリチ支配はすぐに瓦解した。1206年にはオーリゴヴィチ一族のイーゴレヴィチ兄弟がガーリチを征服する。
 ヴォルィニでも、ボヤーリンはダニイール・ロマーノヴィチ支持で固まっていたわけではない。そのためダニイール・ロマーノヴィチがハンガリーに逃亡すると、イーゴレヴィチ兄弟のひとりスヴャトスラーフ・イーゴレヴィチヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公となった。

 ロマーン偉大公の死で、ヴォルィニ系ではこの世代はイングヴァーリ・ヤロスラーヴィチとその弟たちだけ(具体的にはおそらくムスティスラーフ聾唖公だけ)となった。父がヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公になっていなかったとはいえ、一族の最年長者として、イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチは一族間に大きな影響力をふるい得る立場に立った。
 しかるにイングヴァーリ・ヤロスラーヴィチは、幼いダニイール・ロマーノヴィチの後見人になるでもなく、その後の行動を見ても、アレクサンドル・フセヴォローディチや、果ては実弟ムスティスラーフ聾唖公すら統御した形跡がない。
 結局、終生他人の手駒として使われるだけだったと言っていいだろう。ルーツクだけで満足だったのか。

 ロマーン偉大公は勢力拡大を図ってポーランドに侵攻し、ポーランド王レシェク1世白髪王とマゾフシェ公コンラトの兄弟に敗北し、戦死した。今度は逆に、ロマーン偉大公死後の混乱をついて、レシェク白髪王とコンラト・マゾヴィェツキの兄弟が1207年にヴォルィニに侵攻。スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチを捕虜とし、イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチにヴラディーミル=ヴォルィンスキイを与えた。おそらくイングヴァーリ・ヤロスラーヴィチを通じてヴォルィニに勢力を浸透させようと図ったのだろう。この時レシェク白髪王は、イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチの娘と結婚したと言われる。
 しかしイングヴァーリ・ヤロスラーヴィチはヴラディーミル=ヴォルィンスキイのボヤーリンたちに嫌われたらしく、レシェク白髪王の同意のもとにアレクサンドル・フセヴォローディチヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公となった。

 1211年、ハンガリー軍の支援を得たダニイール・ロマーノヴィチがガーリチを奪還。しかし実権は3人のボヤーリンが握り、母后も追放された。この情勢にハンガリー王アンドラーシュ2世が介入。ハンガリー軍でガーリチに侵攻し、ダニイール・ロマーノヴィチを傀儡としていたボヤーリンを追放した。この時、イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチもハンガリー軍に従軍していたらしい。

 1214年、ムスティスラーフ幸運公とともにキエフからフセーヴォロド真紅公を追う。イングヴァーリ・イングヴァーレヴィチが一時的にキエフを支配するが、オーリゴヴィチ一族と講和を結び、ルーツクに戻った。

 その後の消息は不明。

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最終更新日 07 03 2013

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