ダニイール・ロマーノヴィチ
Даниил Романович Галицкий
ガーリチ公 князь Галицкий (1205-06、11-12、29-31、33-35、38-55)
ティホームリ・ペレムィシュリ公 князь Тихомлинский и Перемышльский (1211)
ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公 князь Владимирский (1212-31)
ガリツィア・ロドメリア王 rex Galiciae et Lodomeriae (1255-64)
生:1201
没:1264−ホルム(現ヘウム、ポーランド)
父:ガーリチ=ヴォルィニ公ロマーン偉大公 (ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ)
母:アンナ (ハンガリー王女)
結婚①:
& アンナ公女 (トローペツ公ムスティスラーフ幸運公)
結婚②:1249?
& ? (リトアニア大公ミンダウガスの姪)
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
アンナ・ムスティスラーヴナと | |||
1 | イラークリイ | ||
2 | レフ | -1301 | ガーリチ |
3 | ロマーン | -1260 | ノヴォグルードク |
4 | シュヴァルン | -1269 | ガーリチ |
5 | ムスティスラーフ | ヴォルィニ | |
母親不詳 | |||
6 | ドブロスラーヴァ | スーズダリ公アンドレイ | |
7 | ペレヤスラーヴァ | -1283 | マゾフシェ公シェモヴィト1世 |
第12世代。モノマーシチ(ヴォルィニ系)。洗礼名ヨアン(イヴァン)?
1205年、父ロマーン偉大公が戦死。戦死させたのはポーランド王レシェク1世白髪王とマゾフシェ公コンラトの兄弟で、ちなみにこれにより兄弟は «黒ルテニア» を征服した。この地はのち、ダニイール・ロマーノヴィチ自身がリトアニアから奪っている。
«黒ルテニア» は西欧の用語。«ルテニア» とは本来ルーシのこと。グロドノ、ノヴォグルドク、スローニムなどを含み、現在はベラルーシ西端のグロドノ州(一部ピンスク州、隣国ポーランド領)。東はポーロツク公領、南東はトゥーロフ公領、南西はヴォルィニ公領、北西はヤトヴァーギ人、北はリトアニア人に囲まれる。もともとはグロドノ公領だったが、12世紀末以降は公の存在が不明となり、事実上無主状態にあった。おそらくヴォルィニ公領、あるいはその勢力圏であったと思われる。のち、ユーリイ・グレーボヴィチという公の存在が知られるが、1241年にモンゴルとの戦いで戦死し、グロドノ公領はリトアニアに併合された。
父ロマーン偉大公はヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公であったが、ガーリチを併合し、キエフをも勢力圏下に収め、内外に多くの敵をつくった。当然その死は、それらの敵が一斉に立ち上がるきっかけとなったのみならず、ガーリチ=ヴォルィニという豊かな土地は、父に友好的だった諸公にも大きな誘惑であり、父の後を継いだロマーノヴィチ兄弟はその治世の最初から困難に直面した。
なお、ダニイールとヴァシリコのロマーノヴィチ兄弟が父の遺領をどう分割したのか、あるいは分割せず共同統治したのか、あるいは兄であるダニイールが単独で統治したのか、よくわからない(ただし当時はルーツクにイングヴァーリ・ヤロスラーヴィチ、ベリズにアレクサンドル・フセヴォローディチなど、ヴォルィニ各地に一族が残っていた)。
父によりキエフ大公位を追われ、修道士とさせられていたリューリク・ロスティスラーヴィチは、父の死の報せにいち早く反応し、大公位を奪還。チェルニーゴフのスヴャトスラーヴィチ兄弟、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイのイーゴレヴィチ兄弟がこれと手を結び、ガーリチに侵攻した。
ハンガリー王アンドラーシュ2世は、まさに1205年に王位を甥ラースロー3世から奪ったばかりだったが、積極的にガーリチに介入する姿勢を見せていた(ロマーノヴィチ兄弟の母はその親族とも言われる)。キエフ・チェルニーゴフ連合軍がガーリチに侵攻した際には、ハンガリー軍が都市ガーリチに駐屯しており、これを護り抜いた。
1206年、リューリク・ロスティスラーヴィチ、スヴャトスラーヴィチ兄弟、イーゴレヴィチ兄弟に加え、スモレンスク公ムスティスラーフ老公とその一族、さらにはポーロヴェツ人らが結集し、再度ガーリチに侵攻。その上、ポーランド軍までもがガーリチに侵攻しつつあった。
ダニイール・ロマーノヴィチ(と言うより母后)は再度アンドラーシュ2世に救援を要請するが、ハンガリー軍が到着する前に今度はガーリチのボヤーリンたちが蜂起。もともと公の権威に対する抵抗意識の強いガーリチ貴族は、ロマーン偉大公の支配にも反抗的で、この機にその不満が爆発したということであろう。
ロマーノヴィチ兄弟は母に連れられ本領ヴラディーミル=ヴォルィンスキイに逃亡した。
ガーリチを狙うルーシ諸公、レシェク、アンドラーシュの3者は三竦み状態に陥ったが、内政を預けた王妃ゲルトルートが貴族と対立して国内が混乱状態に陥ったアンドラーシュが脱落。帰国するに際し、アンドラーシュはレシェク、ガーリチ貴族と協定を結び、ガーリチ公にヤロスラーフ・フセヴォローディチを招くことで合意した(ヤロスラーフ・フセヴォローディチの父フセーヴォロド大巣公がロマーン偉大公と同盟関係にあったつながりからか?)。
しかしガーリチ貴族は、ハンガリー軍が撤退するや否やイーゴレヴィチ兄弟に秘密裏に接近。ヴラディーミルがガーリチに、ロマーンがズヴェニーゴロドに入った(かれらの継母がガーリチ公ヤロスラーフ・オスモムィスルの娘だった関係か?)。
こうしてガーリチは失われたが、ヴォルィニもまた完全にロマーノヴィチ兄弟についていたわけではなかった。
イーゴレヴィチ兄弟がロマーノヴィチ兄弟を引き渡すよう要求してくると、ヴォルィニ貴族は2派に分裂。ロマーノヴィチ兄弟は母后とともにレシェク白髪王を頼ってポーランドに逃亡。レシェク白髪王はさらにダニイール・ロマーノヴィチをアンドラーシュのもとに送り届けた。
ヴラディーミル=ヴォルィンスキイにはイーゴレヴィチ兄弟の3人目スヴャトスラーフが入った。
1207年、レシェク白髪王は弟コンラト・マゾヴィェツキとともにヴォルィニに侵攻。スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチを追い、ベリズ公アレクサンドル・フセヴォローディチにヴラディーミル=ヴォルィンスキイを与え、ヴァシリコ・ロマーノヴィチにベリズを与えた。
レシェク白髪王が積極的にヴァシリコ・ロマーノヴィチを支援したのに対して、アンドラーシュはダニイール・ロマーノヴィチを支援するどころではなかった。ガーリチを自ら領有することを目指したアンドラーシュは、イーゴレヴィチ兄弟の内紛に乗じてガーリチを制圧。
1208年、ガーリチ貴族は再びイーゴレヴィチ兄弟を招請。ガーリチは再びイーゴレヴィチ兄弟によって分割支配された。
イーゴレヴィチ兄弟を自ら招いたとはいえ、ガーリチ貴族が公の権威を認めたわけではない。結局かれらは、誰が公であろうとも公と対立する。これに対抗するためイーゴレヴィチ兄弟は貴族を粛清。しかし3人の貴族、ヴラディスラーフ、スディスラーフ、フィリップがハンガリーに逃れ、アンドラーシュに支援を要請した。ここに至ってアンドラーシュも幼いダニイール・ロマーノヴィチを押し立てることを受け入れる。
1211年、ダニイール・ロマーノヴィチを押し立てた3人の貴族が、ハンガリー軍を率いてガーリチに侵攻した。
ヴラディーミル=ヴォルィンスキイを追われたスヴャトスラーフ・イーゴレヴィチはペレムィシュリを支配していたが、ペレムィシュリ市民は侵攻するハンガリー軍に呆気なく降伏。ズヴェニーゴロドもロマーン・イーゴレヴィチが捕虜となるや否や降伏した。ヴラディーミル・イーゴレヴィチは一戦も交えず逃亡し、ダニイール・ロマーノヴィチが全ガーリチの主となった。
しかし主となったとはいえ、ダニイール・ロマーノヴィチはまだ10歳。ベリズからやってきた母后も追い払われ、実権を握ったのはヴラディスラーフ、スディスラーフ、フィリップの3人の貴族であった。
母后はハンガリーに逃亡し、アンドラーシュとルーツク公イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチの連合軍がガーリチに侵攻。3人の貴族は捕らえられ、母后が実権を掌握した。
ヴラディスラーフの兄弟は逃亡し、1212年、ペレソープニツァ公ムスティスラーフ聾唖公とともにガーリチに侵攻。ガーリチ貴族もかれらの側に立ち、ダニイール・ロマーノヴィチと母后は再びハンガリーに亡命することを余儀なくされた。さらにこの過程でヴァシリコ・ロマーノヴィチもベリズを失い、カーメネツに逼塞した。
しかし1213年、アンドラーシュは、何を考えたが、ヴラディスラーフをガーリチに派遣。おそらく捕虜としてハンガリーにとどめ置く間に籠絡されたのだろう。ムスティスラーフ聾唖公を追い出させ、ヴラディスラーフにガーリチの実権を与えた。
ダニイール・ロマーノヴィチはハンガリーからポーランドへ赴き、支援を得られないと知るとカーメネツの弟のもとへ。
他方ムスティスラーフ聾唖公はレシェク白髪王を動かし、さらにはハンガリー人やチェコ人を雇い入れて、ガーリチに侵攻。ヴラディスラーフの軍を破りはしたもののガーリチを陥とすことができず、撤退した。
レシェク白髪王はアレクサンドル・フセヴォローディチに、その領土からティホームリとペレムィシュリ(ガーリチのペレムィシュリではなくヴォルィニのペレムィシュリ)をロマーノヴィチ兄弟に割譲させた。ダニイールとヴァシリコはここに母后とともに居住。年代記は兄弟の言葉としてこう記述している。「Рано или поздно Владимир будет наш. (遅かれ早かれヴラディーミルは我々のものになる)」。
アンドラーシュはポーランド侵攻を計画するが、レシェク白髪王の説得で翻意。次男カールマーンをその娘サロメアと結婚させ、ガーリチ公として派遣した。用済みとなったヴラディスラーフは投獄した(のち獄死)。
これに伴い、アンドラーシュから割譲されたペレムィシュリ(ガーリチの)とヴラディーミル=ヴォルィンスキイをレシェク白髪王はダニイール・ロマーノヴィチに与えた(レシェク白髪王に見放されたアレクサンドル・フセヴォローディチはベリズに逃亡した)。
ここまでのガーリチ=ヴォルィニの情勢は非常にわかりにくいので、以下に単純化してみた(ヴォルィニはヴラディーミル、ルーツク、ベリズに3分割した)。詳細は無視。
ガーリチ | ヴラディーミル | ルーツク | ベリズ | |
---|---|---|---|---|
1205 | ロマーノヴィチ兄弟 | ロマーノヴィチ兄弟 | イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチ | アレクサンドル・フセヴォローディチ |
1206 | イーゴレヴィチ兄弟 | イーゴレヴィチ兄弟 | イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチ | アレクサンドル・フセヴォローディチ |
1207 | ハンガリー | イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチ | イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチ | アレクサンドル・フセヴォローディチ |
1208 | イーゴレヴィチ兄弟 | アレクサンドル・フセヴォローディチ | イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチ | ヴァシリコ・ロマーノヴィチ |
1209 | イーゴレヴィチ兄弟 | アレクサンドル・フセヴォローディチ | イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチ | ヴァシリコ・ロマーノヴィチ |
1210 | イーゴレヴィチ兄弟 | アレクサンドル・フセヴォローディチ | イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチ | ヴァシリコ・ロマーノヴィチ |
1211 | ダニイール・ロマーノヴィチ | アレクサンドル・フセヴォローディチ | イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチ | ヴァシリコ・ロマーノヴィチ |
1212 | ムスティスラーフ聾唖公 | アレクサンドル・フセヴォローディチ | イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチ | |
1213 | ハンガリー | ダニイール・ロマーノヴィチ | イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチ | アレクサンドル・フセヴォローディチ |
1214 | ハンガリー | ダニイール・ロマーノヴィチ | イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチ | アレクサンドル・フセヴォローディチ |
1214年には、新たなアクターが登場する。スモレンスク系のノーヴゴロド公ムスティスラーフ幸運公である。アンドラーシュと対立したレシェク白髪王が招いたもので、1215年、ムスティスラーフ幸運公はカールマーンを追ってガーリチを征服。さらにダニイール・ロマーノヴィチに娘を与えて宥和した。
1216年、ダニイール・ロマーノヴィチは弟ヴァシリコとともに、父の死以来ポーランドが侵食したヴォルィニ辺境をレシェク白髪王から奪回。これに怒ったレシェク白髪王はアンドラーシュと手を結び、アンドラーシュはカールマーンをガーリチに派遣する。ムスティスラーフ幸運公は逃亡し、カールマーンが再びガーリチを支配した。
この機に乗じてアレクサンドル・フセヴォローディチがヴラディーミル=ヴォルィンスキイ奪還を狙い軍を興す。
1218年、ノーヴゴロドのごたごたを片付けたムスティスラーフ幸運公がガーリチに帰還。ポーロヴェツ人を雇い、1219年にカールマーンを追ってガーリチを奪還した。
これに乗じてダニイールとヴァシリコもアレクサンドル・フセヴォローディチを破るが、ムスティスラーフ幸運公の仲介でベリズの領有は認めた。
ダニイールとヴァシリコのロマーノヴィチ兄弟にとって、父の遺領はヴォルィニだけではなくガーリチもまたそうである。たとえダニイール・ロマーノヴィチの義父であり、これまで協調関係にあったとはいえ、ムスティスラーフ幸運公が兄弟の «正統な権利» を侵していることに変わりはない。これに付け込んだアレクサンドル・フセヴォローディチが両者の対立を煽り、ロマーノヴィチ兄弟とムスティスラーフ幸運公との戦争が勃発した。
ロマーノヴィチ兄弟は改めてレシェク白髪王と結び、他方でムスティスラーフ幸運公はアレクサンドル・フセヴォローディチ、スモレンスク公ヴラディーミル・リューリコヴィチと結んで、さらにはポーロヴェツ人をも雇い入れて、両者は激しく対立した。
1223年、ポーロヴェツ人を追って、モンゴル軍がステップに出現。ポーロヴェツ人のコテャンの要請を受け、その娘婿であるムスティスラーフ幸運公は、キエフ大公ムスティスラーフ老公、チェルニーゴフ公ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチなどとともにルーシ諸公を招集。ダニイール・ロマーノヴィチやムスティスラーフ聾唖公を含む10人以上の公が加わり、ルーシ・ポーロヴェツ連合軍はカルカ河畔の戦いでモンゴル軍と戦う。
ダニイール・ロマーノヴィチはムスティスラーフ幸運公の下で先陣を切るが、負傷し、大敗を喫して逃亡した。
ムスティスラーフ幸運公はアンドラーシュ2世との関係を強化。その三男アンドラーシュに娘を与え、あわせてペレムィシュリを与えた。スディスラーフ率いるガーリチ貴族もダニイール・ロマーノヴィチよりも王子アンドラーシュを選び、1226年、ムスティスラーフ幸運公は都市ガーリチを王子アンドラーシュに与えて自らはトルチェスクに隠棲した(1228年死去)。
ハンガリーに対抗するダニイール・ロマーノヴィチとしてはポーランドの支援が欲しいところだったが、レシェク白髪王は1227年に死去。その弟マゾフシェ公コンラト、ヴィェルコポルスカ公ヴワディスワフ・ラスコノギ、シロンスク公ヘンリク髭公がクラクフを巡って激しく争い、ルーシ情勢に介入するどころではなかった(逆にダニイール・ロマーノヴィチが介入し、諸公を仲裁したりしている)。
1228年、キエフ大公ヴラディーミル・リューリコヴィチがチェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチ、さらにはポーロヴェツ人のコテャンと同盟し、ヴォルィニに侵攻。ダニイールとヴァシリコのロマーノヴィチ兄弟に加え、一族のヤロスラーフ・イングヴァーレヴィチもともにこれを迎え撃った。
もっとも、正面きって戦うには戦力差がありすぎたので、ダニイール・ロマーノヴィチはコテャン・ハーンと講和。コテャン・ハーンがステップに戻ったのを見て、しかもカーメネツも陥とせず、ヴラディーミル・リューリコヴィチとミハイール・フセヴォローディチもそれぞれキエフとチェルニーゴフに帰還した。
1229年にはガーリチに侵攻。アンドラーシュとスディスラーフを追い、これを征服した。アンドラーシュを捕らえたが、かつてのアンドラーシュ2世との友好関係を考慮し、釈放している。
ハンガリーに逃亡したスディスラーフはアンドラーシュ2世を唆してガーリチに侵攻させるが、ダニイール・ロマーノヴィチはこれを撃退する。
1230年、ガーリチ貴族はアレクサンドル・フセヴォローディチと語らい、ダニイール・ロマーノヴィチを暗殺してアレクサンドル・フセヴォローディチを公として招く密約を交わす。しかしこの陰謀を察知したダニイール・ロマーノヴィチは、ヴァシリコ・ロマーノヴィチにベリズを攻略させる。アレクサンドル・フセヴォローディチはベリズを棄ててペレムィシュリに逃亡。
しかしここでも反抗をやめないアレクサンドル・フセヴォローディチに対して、ダニイール・ロマーノヴィチはペレムィシュリに侵攻してこれを占領。アレクサンドル・フセヴォローディチはハンガリーに逃亡し、スディスラーフと合流してアンドラーシュ2世のガーリチに対する野心を煽りたてた。
1231年、アンドラーシュ2世はガーリチに侵攻。ガーリチ貴族はダニイール・ロマーノヴィチを裏切り、ハンガリー側に寝返る。アンドラーシュ2世はガーリチに再び三男アンドラーシュを据え、さらにヴラディーミル=ヴォルィンスキイに侵攻。アレクサンドル・フセヴォローディチにベリズとチェルヴェニを割譲させた。
事態は2年前に戻ったどころかより悪化して、ロマーノヴィチ兄弟は追い詰められた。ところがここで、アレクサンドル・フセヴォローディチとの和解に成功。さらに1232年には、かつて対立したキエフ大公ヴラディーミル・リューリコヴィチ、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ、さらにポーロヴェツ人とも同盟を結ぶ。
この外交的成功に支えられ、1233年にはガーリチを徐々に侵食。アンドラーシュとスディスラーフを都市ガーリチに追い詰めた。スディスラーフはアレクサンドル・フセヴォローディチに内応を呼び掛け、アレクサンドル・フセヴォローディチが変心。しかし結局、アンドラーシュが死に、ガーリチ貴族がダニイール・ロマーノヴィチの公位を認めて、都市ガーリチは陥落。内戦は終結した。アレクサンドル・フセヴォローディチもキエフに逃亡する直前に捕らえられた(ただしスディスラーフは再びハンガリーに亡命)。
こうしてロマーノヴィチ兄弟がガーリチ=ヴォルィニを制圧した(おそらくふたり以外の公はいない)。
しかしガーリチ情勢は安定にはいまだ程遠い状況にあった。
1233年、ヴラディーミル・リューリコヴィチの要請を受け、ダニイール・ロマーノヴィチはチェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチとの争いに介入。ミハイール・フセヴォローディチをキエフ近郊から追い、さらにチェルニーゴフに侵攻。しかしここで敗北し、キエフに帰還。さらにイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがポーロヴェツ人を率いて侵攻。ヴラディーミル & ダニイール連合軍はここでも敗北を喫し、のみならずヴラディーミル・リューリコヴィチは捕虜となる。
ガーリチに逃げ帰ったダニイール・ロマーノヴィチは、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがヴォルィニに侵攻したとの報せに、ヴァシリコ・ロマーノヴィチを派遣。この時ガーリチ貴族が蜂起し、ダニイール・ロマーノヴィチはハンガリーに逃亡した。
イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがキエフ大公となり、ミハイール・フセヴォローディチがガーリチを制圧した。
ダニイール・ロマーノヴィチの頼みの綱であるハンガリー王アンドラーシュ2世は1235年に死去。後を継いだベーラ4世は、父の在位中に勢力を拡大した貴族との対立に追われ、ガーリチどころではなかった。
一方、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチとミハイール・フセヴォローディチはヴォルィニに侵攻したが、ポーロヴェツ人はヴォルィニよりもガーリチでの略奪行為に明け暮れた。
最終的にダニイール・ロマーノヴィチはミハイール・フセヴォローディチと講和し、ペレムィシュリを獲得した。
1235年、マゾフシェ公コンラトを支援してリヴォニア騎士団と戦う。
1236年、ダニイール・ロマーノヴィチと同盟したヴラディーミル大公ユーリイ・フセヴォローディチによりイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがキエフを追われ、その弟ヤロスラーフ・フセヴォローディチがキエフ大公に。1238年にヤロスラーフ・フセヴォローディチがヴラディーミル大公となってキエフを去ると、ミハイール・フセヴォローディチがキエフ大公となった。ミハイール・フセヴォローディチはダニイール・ロマーノヴィチからペレムィシュリを奪い、息子ロスティスラーフをガーリチ公とした。
ロスティスラーフ・ミハイロヴィチはリトアニア人との戦いに出陣。その隙をついて、ダニイール・ロマーノヴィチがガーリチを奪還。ロスティスラーフ・ミハイロヴィチはハンガリーに逃亡するが、かつてのダニイール・ロマーノヴィチ同様支援を得られず。
1239年、モンゴル軍侵攻の報せに、ミハイール・フセヴォローディチはキエフから逃亡。ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチがキエフ大公となるが、ダニイール・ロマーノヴィチはキエフに侵攻。ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチを追って、自らがキエフ大公となった。もっともダニイール・ロマーノヴィチもキエフにはとどまらず、ガーリチに帰国。キエフには総督を残した。
他方、領土を失ったミハイール・フセヴォローディチとロスティスラーフの父子はダニイール・ロマーノヴィチと講和。ロスティスラーフにはルーツクを与え、ミハイール・フセヴォローディチにもキエフ大公位を返還することを約束した。しかしミハイール・フセヴォローディチは、モンゴル軍の襲来を目前に控えたキエフに赴くことを嫌い、ガーリチ=ヴォルィニに居候を続けた。
1240年、モンゴル軍がキエフを攻略。ダニイール・ロマーノヴィチはベーラ4世に救援を求めに赴くが、断られた。その間、モンゴル軍は西進し、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ、カーメネツ、ガーリチ等を攻略。一旦はガーリチに帰還しようとしたダニイール・ロマーノヴィチは、再びハンガリーへ。その後ヴァシリコ・ロマーノヴィチや妻子がポーランドに逃亡したとの報せに、自らもポーランドへ。コンラト・マゾヴィェツキの子ボレスワフのもとに身を寄せた。
モンゴル軍がガーリチ=ヴォルィニを後にしたとの報せを受け、ダニイール・ロマーノヴィチは帰還。同じくポーランドに避難していたミハイール・フセヴォローディチはキエフに、ロスティスラーフ・ミハイロヴィチはチェルニーゴフに去った。
ガーリチ=ヴォルィニに帰還したとはいえ、ガーリチ貴族は相変わらずダニイール・ロマーノヴィチを、あるいは公として認めず、あるいは公として認めても公としての実権を認めようとせず、さらにはロスティスラーフ・ミハイロヴィチが改めてガーリチに侵攻した。ダニイール・ロマーノヴィチはヴァシリコ・ロマーノヴィチと共同でロスティスラーフ・ミハイロヴィチをガーリチから追うが、ガーリチ情勢を落ち着かせるまでには至らなかった。
1243年、ハンガリー軍を率いてロスティスラーフ・ミハイロヴィチがガーリチに侵攻。ダニイール・ロマーノヴィチはこれを破る。
ロスティスラーフ・ミハイロヴィチは1245年にハンガリー軍とポーランド軍を率いてガーリチに侵攻。ダニイールとヴァシリコがこれを迎え撃ち、ヤロスラーヴリ(ヴォルィニの)近郊で撃破。ハンガリー軍もポーランド軍も逃げ散り、ロスティスラーフ・ミハイロヴィチはガーリチを断念し、以後ハンガリー貴族としてその生涯を送った。
ヤロスラーヴリの戦いで、ダニイール・ロマーノヴィチのガーリチ公位は確固たるものとなった。ハンガリーもルーシ諸公ももはやガーリチ公位を窺おうとはせず、ガーリチ貴族も反抗の手段を失った。
ダニイール・ロマーノヴィチは、荒廃した都市ガーリチを棄てて、新たにホルム(現ヘウム、ポーランド)を建設してここに居住する。
なお、ダニイール・ロマーノヴィチがホルムに遷都した理由のひとつに、ボヤーリンの勢力の強いガーリチを嫌ったことも挙げられるかもしれない。大土地所有者であるボヤーリンたちの影響力を削ぐため、ダニイール・ロマーノヴィチは都市建設を推進し、手工業者や商人を庇護した。
モンゴルの去ったポーロツク、ガーリチ=ヴォルィニ、キエフには、モンゴル襲来の被害を受けなかったリトアニア人が進出してきていた。ガーリチ公位の確保と同時並行で、ダニイールとヴァシリコは共同してこれを追い払う。
1249年には、リトアニアの中央集権を進めるミンダウガスに領土を没収されたタウトヴィラス、エディヴィダス、ヴィキンタスら諸侯が逃れてくる。ダニイール・ロマーノヴィチはタウトヴィラスの妹(?)と再婚し、これを支援してミンダウガスと戦った。
1249年、ポーランド諸公(マゾフシェ公シェモヴィト? レグニツァ公ボレスワフ2世?)やポーロヴェツ人とともにヤトヴャーギ人遠征。
1250年、バトゥよりガーリチを明け渡すよう要求される。進退極まったダニイール・ロマーノヴィチは、自らバトゥのもとに出頭。幸いバトゥに気に入られ、ガーリチ=ヴォルィニの領有が認められた。
1250年には対ハンガリー関係も好転し、長男レフをベーラ4世の娘コンスタンツィアと結婚させた。
1246年にオーストリア公フリードリヒ2世が死に、バーベンベルク家が断絶していた。ベーラ4世はオーストリアの継承を目論み、ボヘミア王プシェミスル・オタカル2世との戦争を初めていた。ガーリチどころではなくなっていたのだ。
ベーラ4世と同盟を結んだダニイール・ロマーノヴィチは、ハンガリー軍とともにボヘミアに遠征している。
それどころか、自らオーストリアに野心を燃やしたのか、息子ロマーンをフリードリヒ2世の姪と結婚させた。
対モンゴル戦の支援を得ようとローマ教皇に接近し、1253年、教皇インノケンティウス4世から王冠を得、ドロギーチナで戴冠した。しかし対モンゴル戦の支援は得られず、早くも1254年にはダニイール・ロマーノヴィチはローマとの関係を絶った。
ちなみに同じ1253年、インノケンティウス4世から王冠を授かったのがリトアニアのミンダウガス。
1253年、リトアニアに侵攻。ミンダウガスを破り、«黒ルテニア» を占領する。1255年、ミンダウガスと講和し、息子シュヴァルンをミンダウガスの娘と結婚させ、別の息子ロマーンを «黒ルテニア» を支配するノヴォグルードク公として認めさせた。しかしミンダウガスのリトアニア大公位は認めざるを得ず、タウトヴィラスにはポーロツク公位を与えた。
1253年と54年、レフ・ダニイーロヴィチとともにヤトヴャーギ人遠征。これを下し、貢納を義務づけた。
ダニイール・ロマーノヴィチはさらに、モンゴルに対しても抵抗をする。当時バトゥの甥クレムサがガーリチ=ヴォルィニの南東部を支配していたが、1254年、ダニイール・ロマーノヴィチはその勢力伸張に対抗して南ブグ流域の諸都市を奪う。さらに1255年にはキエフにも侵攻。
幸運なことに、当時バトゥは病に臥せっていたと思われ、1255/56年には死去。嫡男のサルタクもカラコルムに赴いており、その帰途で死去。跡を継いだウラグチは若年であり、ダニイール・ロマーノヴィチの攻勢に効果的に対応することができなかった。
もっともこの辺り、文献によって年代がずれている。ダニイール・ロマーノヴィチがクレムサと戦ったのは1257〜59年とする文献もある。
1257年、ベルケがサライのハーンとなり、権力を確立。クレムサに替えてブルンダイをガーリチ=ヴォルィニに派遣した。ブルンダイは直接ダニイール・ロマーノヴィチと対決することを避けたのか、代わりに1258年、リトアニア遠征への従軍を要求してくる。ダニイール・ロマーノヴィチはこれを受諾。ただし自分の代わりにレフ・ダニイーロヴィチとヴァシリコ・ロマーノヴィチを従軍させ、自らはポーランドに逃亡した。
この遠征の報復として、リトアニアはガーリチ=ヴォルィニに侵攻。ロマーン・ダニイーロヴィチも殺された。
ブルンダイはさらに1259年(61年?)には、ヴォルィニ全都市の城塞を破却するよう要求。ダニイール・ロマーノヴィチもこれを呑まざるを得なかった。ブルンダイがホルムに進軍してくると、ダニイール・ロマーノヴィチはハンガリーに逃亡。ブルンダイはヴァシリコ・ロマーノヴィチとともにポーランドに侵攻してこれを蹂躙し、ステップへと去っていった。
ダニイール・ロマーノヴィチのモンゴルへの反抗は挫折した。
1263年、ミンダウガスがサモギティア公トレニオタに暗殺される。ダニイール・ロマーノヴィチは、ミンダウガスの娘婿であるシュヴァルン・ダニイーロヴィチとヴァシリコ・ロマーノヴィチに、遺児ヴァイシュヴィルカスを支援させた。これによりリトアニア大公位を確保したヴァイシュヴィルカスは、以後しばらくダニイール・ロマーノヴィチに依存するようになる。