ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

アレクサンドル・フセヴォローディチ

Александр Всеволодич

ベリズ公 князь Бельзский (1204、10-30、31-34)
ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公 князь Владимирский (1207-11)

生:?
没:1234

父:ベリス公フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ
母:?

結婚:
  & ? (スモレンスク公ヴラディーミル・リューリコヴィチ

子:?

第12世代。モノマーシチ(ヴォルィニ系)。

 父の没年は不明だが、一般的に1196年頃だろうと言われている。アレクサンドル・フセヴォローディチの生年がいつかはわからないが、当然それ以前だろう。従兄弟のロマーノヴィチ兄弟よりも、少なくとも10歳近くは年長だったことになる。1207年にヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公に擁立されたことを思えば、1180年代前半、さらには1170年代の生まれであってもおかしくない。
 おそらく父の死でベリズを相続したのだろう。
 もっとも、厳密に言えばアレクサンドルの父がフセーヴォロド・ムスティスラーヴィチであったとは、年代記には書かれていない。どちらもベリズ公だったのでおそらくそうだろうと想定されているに過ぎない。

 1205年、伯父のロマーン偉大公が戦死。その死は南ルーシ情勢を大きく変え、以後ガーリチ=ヴォルィニ(特にガーリチ)は数十年にわたる混乱に陥った。
 ロマーン偉大公を戦死させたのは、ポーランド王レシェク1世白髪王とマゾフシェ公コンラト・マゾヴィェツキの兄弟である。ふたりはこれを契機に «黒ルテニア»(グロドノ公領)を併合し、さらにヴォルィニに対する影響力を増大させようと、1207年、ヴォルィニに侵攻。ヴラディーミル=ヴォルィンスキイからスヴャトスラーフ・イーゴレヴィチを追った。これにはムスティスラーフ聾唖公とともにアレクサンドル・フセヴォローディチも従軍している。
 レシェク白髪王はヴォルィニ系一族の長老であるルーツク公イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公に据えた。しかしイングヴァーリ・ヤロスラーヴィチにはボヤーリンが反発し、結局レシェク白髪王も折れて、すぐにアレクサンドル・フセヴォローディチを代わりのヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公とした。
 当時ヴォルィニ系一族にはほかに、ロマーノヴィチ兄弟(ロマーン偉大公の遺児)もいたし、アレクサンドル・フセヴォローディチの弟フセーヴォロドもいた。ムスティスラーフ聾唖公などはレシェクとコンラトに協力しているし、アレクサンドル・フセヴォローディチよりも年長と思われる。レシェクとコンラトが、なぜアレクサンドル・フセヴォローディチを擁立したのかは不明。
 ロマーノヴィチ兄弟のうち、弟ヴァシリコ・ロマーノヴィチが当時レシェク白髪王のもとに身を寄せていたので、レシェク白髪王はアレクサンドル・フセヴォローディチが去った後のベリズをヴァシリコ・ロマーノヴィチに与えた。

 一方、ロマーノヴィチ兄弟の兄ダニイール・ロマーノヴィチはハンガリーに身を寄せていたが、ハンガリー王アンドラーシュ2世の支援を得て、1211年にはガーリチを奪還した。
 しかしまだ幼いダニイール・ロマーノヴィチに代わってボヤーリンたちが実権を握り、このため混乱が続いた。ボヤーリンたちはダニイール・ロマーノヴィチを追い、あまつさえアンドラーシュを籠絡。これに対してレシェク白髪王が1213年にガーリチに侵攻し、アレクサンドル・フセヴォローディチも弟フセーヴォロド・フセヴォローディチとともにこれに従軍した。
 ガーリチは陥とせず、レシェク白髪王はアレクサンドル・フセヴォローディチの分領からティホームリとペレムィシュリ(ヴォルィニの)をダニイール・ロマーノヴィチに割譲させている。こうしてヴォルィニは、ヴラディーミルのアレクサンドル・フセヴォローディチ、ルーツクのイングヴァーリ・ヤロスラーヴィチ、ペレソープニツァのムスティスラーフ聾唖公、ペレムィシュリのロマーノヴィチ兄弟と、4分割された。

 しかしこの直後(1213年? 1214年?)、レシェク白髪王はヴラディーミル=ヴォルィンスキイからアレクサンドル・フセヴォローディチを追い、ダニイール・ロマーノヴィチにこれを与えた。アレクサンドル・フセヴォローディチは旧領ベリズに逃げ帰った。

 1215年、アレクサンドル・フセヴォローディチはロマーノヴィチ兄弟に敵対するが、敗退し、ベリズもロマーノヴィチ兄弟に攻略された。
 レシェク白髪王をあてにできないアレクサンドル・フセヴォローディチは、ガーリチを支配するムスティスラーフ幸運公との提携を模索した。ムスティスラーフ幸運公ダニイール・ロマーノヴィチの舅だが、ガーリチはロマーノヴィチ兄弟にとっては «ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» であり、ガーリチ支配を巡っては対立する関係にあった。

 1225年(頃?)、ムスティスラーフ幸運公とロマーノヴィチ兄弟の争いは現実化する。アレクサンドル・フセヴォローディチはムスティスラーフ幸運公に加え、キエフ大公ヴラディーミル・リューリコヴィチ(舅)、ポーロヴェツ人とも結んでロマーノヴィチ兄弟に対抗。しかしベリズは再び攻略され、ムスティスラーフ幸運公もロマーノヴィチ兄弟と和解した。

 1228年、ムスティスラーフ幸運公が死去。ダニイール・ロマーノヴィチがガーリチを支配。

 1230年、ロマーノヴィチ兄弟による支配に反発するガーリチ貴族たちと、ダニイール暗殺とアレクサンドル招聘の密約を交わす。しかし密約は漏れ、ヴァシリコ・ロマーノヴィチによりアレクサンドル・フセヴォローディチはベリズからも追われ、ペレムィシュリに逃亡。ダニイール・ロマーノヴィチによりそこも追われると、ハンガリーへ。
 アンドラーシュ2世の支援を得たアレクサンドル・フセヴォローディチはガーリチに侵攻。ベリズを奪還し、ロマーノヴィチ兄弟を追い詰める。
 1232年、アレクサンドル・フセヴォローディチはロマーノヴィチ兄弟と和解。

 1233年、アレクサンドル・フセヴォローディチはハンガリーの支配するガーリチを攻囲するが、ガーリチ貴族から内応の提案があり、アレクサンドル・フセヴォローディチはこれに心を動かされた。これを知ったダニイール・ロマーノヴィチに、キエフに逃亡する直前に捕らえられる。
 その後の消息は不明だが、おそらく獄死したものと考えられる。

 なお、のちの時代のドルツキイ家は、アレクサンドル・フセヴォローディチの子孫だとする説もある。

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最終更新日 07 03 2013

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