ヴラディーミル・グレーボヴィチ
Владимир Глебович
ペレヤスラーヴリ公 князь Переяславский (1169-87)
生:1157
没:1187.04.18−ペレヤスラーヴリ
父:ペレヤスラーヴリ公グレーブ・ユーリエヴィチ (ロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイ)
母:? (チェルニーゴフ公イズャスラーフ・ダヴィドヴィチ)
結婚:1179
& ザバーヴァ公女 (チェルニーゴフ公ヤロスラーフ・フセヴォローディチ)
子:?
第10世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。
1169年、伯父アンドレイ・ボゴリューブスキイの派遣したヴラディーミル軍がキエフを占領。父がキエフ大公となった。
ペレヤスラーヴリ公であった父はキエフに赴くに際して、ヴラディーミル・グレーボヴィチをペレヤスラーヴリに残す。キエフ大公がキエフ近郊のペレヤスラーヴリに息子や弟を配置するのは、歴代キエフ大公の言わば慣例であった。
1171年(?)、父が死去。アンドレイ・ボゴリューブスキイは今度はロスティスラーヴィチ兄弟(スモレンスク系一族)にキエフを与えた。ヴラディーミル・グレーボヴィチは、そのままペレヤスラーヴリ公としてとどまる。
しかしその直後から、アンドレイ・ボゴリューブスキイとロスティスラーヴィチ兄弟の関係は悪化。
1173年、ヴラディーミル・グレーボヴィチはアンドレイ・ボゴリューブスキイの派遣した軍に従い、ロスティスラーヴィチ兄弟と戦う。しかしロスティスラーヴィチ兄弟に敗北し、南ルーシにおけるアンドレイ・ボゴリューブスキイの影響力は決定的に低下した。
とはいえ、ヴラディーミル・グレーボヴィチは依然としてペレヤスラーヴリを保持することができた。あるいはアンドレイ・ボゴリューブスキイと同盟関係にあった、北隣のチェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチが庇護してくれたのか、あるいは単独でロスティスラーヴィチ兄弟と講和を結んだのか(もっともこの時点でヴラディーミル・グレーボヴィチはまだ16歳。おそらく前者だろう)。
1175年(?)、アンドレイ・ボゴリューブスキイが死ぬと、ヴラディーミル・グレーボヴィチは、後を継いだ叔父ミハルコ・ユーリエヴィチによりペレヤスラーヴリから追われる。しかしそのミハルコ・ユーリエヴィチも1177年(?)には死去。後を継いだ叔父フセーヴォロド大巣公の支援により、ペレヤスラーヴリを奪還する。
と書いていた文献があったが、南ルーシに何ら権限を持たないミハルコ・ユーリエヴィチに追い出されるとか、少々考えづらい。そもそも北東ルーシにおいて自身の権力を確立するのに忙しく、それどころではなかったはず。ペレヤスラーヴリ違いでは?(ヴラディーミル・グレーボヴィチが支配したのは南ルーシのペレヤスラーヴリ=ユージュヌィー、ミハルコ・ユーリエヴィチが支配したのは北東ルーシのペレヤスラーヴリ=ザレスキイ)
1177年、フセーヴォロド大巣公を支援してリャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチ、ムスティスラーフ無眼公と戦う。
この間に南ルーシでは情勢が落ち着き、キエフ大公となったスヴャトスラーフ・フセヴォローディチとオーヴルチ公のリューリク・ロスティスラーヴィチとが事実上南ルーシにおける権限を分け合った。
しかしキエフを巡って激しく争っていた諸勢力も、ヴラディーミル・グレーボヴィチに手をつけようとはしていないらしい。1179年にスヴャトスラーフ・フセヴォローディチの姪と結婚したことで、つながりを強めたおかげだろう。ちなみにこの時点ではすでに父は亡く、この結婚話はスヴャトスラーフ・フセヴォローディチが積極的に進めたのか、それともヴラディーミル・グレーボヴィチが自ら働きかけたのか。
1183年、リューリク・ロスティスラーヴィチとともにポーロヴェツ人に遠征。しかし途上、出陣を拒んだノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公イーゴリ・スヴャトスラーヴィチの領土に侵攻し、ポーロヴェツ人に遠征する代わりにセーヴェルスキイ諸都市を攻略した(イーゴリ・スヴャトスラーヴィチの弟フセーヴォロド・ブイ=トゥールはヴラディーミル・グレーボヴィチの義弟)。
1184年、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチとリューリク・ロスティスラーヴィチとがポーロヴェツ人との戦いに遠征。ヴラディーミル・グレーボヴィチもこれに加わり、自ら先陣を切る。コビャク・ハーンを捕らえ、ポーロヴェツ人を打ち破った。
1185年にはコンチャク・ハーンが襲来するが、今度もスヴャトスラーフ・フセヴォローディチとリューリク・ロスティスラーヴィチが出陣。ヴラディーミル・グレーボヴィチもムスティスラーフ・ロマーノヴィチとともに先陣を務め、ポーロヴェツ人を打ち破った。
しかし同年、コンチャクは再びルーシに来襲し、イーゴリ・スヴャトスラーヴィチを打ち破って捕虜とし(『イーゴリ軍記』)、さらにペレヤスラーヴリを攻囲。ヴラディーミル・グレーボヴィチは大怪我をする奮戦で持ちこたえ、スヴャトスラーフ & リューリクの来援によりコンチャクを撃退した。
1187年、スヴャトスラーフ & リューリクは再度ポーロヴェツ人討伐に遠征。ヴラディーミル・グレーボヴィチも従軍したが、ポーロヴェツ人は逃亡し、戦闘は行われなかった。
帰途、発病したヴラディーミル・グレーボヴィチは、帰還後まもなく死去。
年代記の英雄で、かれの数度にわたるポーロヴェツ人との戦いが詳述され、その善良さと勇敢さが讃えられている。