ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチ «ミジンヌィイ» / «クヴァシュニャー»

Василий Ярославич "Мизинный", "Квашня"

コストロマー公 князь Костромский (1247-76)
ヴラディーミル大公 великий князь Владимирский (1272-76)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1273-76)

生:1236/41−ヴラディーミル
没:1276−コストロマー

父:ヴラディーミル大公ヤロスラーフ・フセヴォローディチヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公
母:ロスティスラーヴァ (トローペツ公ムスティスラーフ幸運公

結婚:?

子:?

第11世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。ヤロスラーフ・フセヴォローディチの末男。

 1246年、父が死去。すでに2年前に母も死んでおり、ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチはまだ幼いうちに(5歳か10歳か)両親を亡くすこととなった。

 ヴラディーミル大公位は叔父スヴャトスラーフ・フセヴォローディチが継いだが、長兄アレクサンドル・ネフスキイと次兄アンドレイ・ヤロスラーヴィチとがこれを不服とし、サライへ、さらにはカラコルムへと赴き、グユク・ハーンからふたりでキエフ・ルーシを分割することを認められた。
 しかし兄たちが帰国するまでの間に、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチが残ったヤロスラーヴィチ兄弟を懐柔し、ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチもコストロマーを分領として与えられた。
 その後、別の兄ミハイール・ホローブリトが叔父を追ってヴラディーミル大公となり、1250年には帰国したアレクサンドル・ネフスキイがキエフとノーヴゴロドの、アンドレイ・ヤロスラーヴィチがヴラディーミルの支配者となって、さらにアンドレイ・ヤロスラーヴィチがモンゴルに反抗してヴラディーミルから追われ、アレクサンドル・ネフスキイヴラディーミル大公に就任する等、混乱が続いた。
 ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチは当然これらの騒動にはかかわっていない。おそらくは誰かの世話になっていたと思うのだが、叔父も兄もヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチにかまっている余裕はなかったようでもある。まだ幼くしてひとりコストロマーに放り出されたのだろうか。

 1263年、アレクサンドル・ネフスキイが死去。別の兄ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチヴラディーミル大公位を継いだ。
 アレクサンドル・ネフスキイの存命中はこれと対抗してヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチと結んだノーヴゴロドは、ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチヴラディーミル大公となると、徐々にかれと対立するようになる。これに乗じてノーヴゴロドを狙ったのがヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチだった。

 1271年、ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチとノーヴゴロド市民との対立が激化。ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチはノーヴゴロド側に立つ。
 ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチはサライに赴き、メング=ティムールに謁見し、ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチを非難。ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチはノーヴゴロドとの和解を余儀なくされ、自身サライに赴き、1272年、死去。ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチがメング=ティムールよりヴラディーミル大公位を与えられた。

 帰国したヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチは、さっそくノーヴゴロドに対して自らを公とするよう要求。しかし当時、ノーヴゴロド公の有力候補はほかにもいた。アレクサンドル・ネフスキイの遺児ドミートリイ・アレクサンドロヴィチである。結局ノーヴゴロド市民は、ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチの期待に反して、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチを公として招くことを決議。アレクサンドル・ネフスキイに抗してヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチと、ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチに抗してヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチやドミートリイ・アレクサンドロヴィチと結んできたノーヴゴロドが、いまやヴラディーミル大公となったヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチを自らの公として認めることは、むしろそもそもあり得なかったと言うべきか。
 ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチはモンゴル軍、さらには甥のスヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチをも味方につけてノーヴゴロドと戦う。トルジョークを攻略するなどしたが、軍事的には不調だった。
 ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチはヴラディーミル、コストロマー、トヴェーリのノーヴゴロド商人を拘束し、その資産を凍結。ノーヴゴロドではパンの価格が高騰した。状況を打破せんとしてドミートリイ・アレクサンドロヴィチが軍を率いてトヴェーリに侵攻するが、ヴァシーリイ軍に抗し得ないことを察し、ペレヤスラーヴリ=ザレスキイに逃亡。経済制裁がこたえて、1273年、ノーヴゴロドは屈服し、ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチを公として認めた。

 緊張関係にあったノーヴゴロドに対しては、ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチは公位を維持することで満足し、従来通り半独立の地位を認めた。しかしヴラディーミル大公領内においては、キプチャク・ハーンの影響力が増大。ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチ自身がキプチャク・ハーンの支持を得て大公位を獲得、確保したこともあり、モンゴル軍は勝手気ままにルーシの諸都市や農村を略奪していた。

 1275年、召喚されてサライへ。メング=ティムールと会見するが、不調だったらしい(持参した貢納の額が少なかった)。1276年に帰還。
 コストロマーに葬られる。

 添え名の «ミジンヌィイ» とは「ミジーネツ(小指)の」という意味だが、それが転じて「最年少の」といった意味がある。
 また «クヴァシュニャー» という添え名で呼ばれることもある。これはパン生地を発酵させる桶のことだが、それが転じて「ぐず、ぼんくら」といった意味がある。しかし、実はヴァシーリイ・クヴァシュニャーというのはヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチのことではない。

 現在コストロマーにある「テオドロスの聖母のイコン」についての『テオドロスのイコンの顕現物語』によると、1239年、モンゴル軍によって破壊されたゴロデーツ近郊にてこのイコンを発見したのが、「コストロマーとガーリチの大公ヴァシーリイ」。別の伝説によると、かれはユーリイ・ヤロスラーヴィチなる人物の息子である(つまりヴァシーリイ・ユーリエヴィチ)。
 «ユーリイ・ヤロスラーヴィチ» も、ましてや «ヴァシーリイ・ユーリエヴィチ» も1239年の時点では北東ルーシには存在せず、ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチも生まれたばかりかあるいはまだ生まれていないか。これらの伝説が史実を反映しているとしても、どのような史実かはよくわからない。しかしこのため、ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチもしばしば «クヴァシュニャー» という添え名で呼ばれることがある。

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最終更新日 07 03 2013

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