ウリヤーナ(ユリアーニヤ)・ドミートリエヴナ・パレツカヤ
Ульяня/Юлиания Дмитрьевна Палецкая
公女 княжна
公妃 княгиня (1547-)
生:?
没:1569
父:ドミートリイ・フョードロヴィチ・パレツキイ公 (フョードル・イヴァーノヴィチ・パレツキイ公)
母:?
結婚:1547
& ウーグリチ公ユーリイ・ヴァシーリエヴィチ 1532-64
子:
名 | 生没年 | ||
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ユーリイ・ヴァシーリエヴィチと | |||
1 | ヴァシーリイ | 1559-60 |
第19世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。
当時の証言によれば、ウリヤーナ・ドミートリエヴナはその知性と情愛深さで際立っていたという。
夫は一般的に精神薄弱だったとされており、その分領経営はウリヤーナ・ドミートリエヴナ、あるいはその実家のパレツキー公家の人間がみたらしい。
夫の死後、1564年にノヴォデーヴィチー修道院で修道女に(修道名アレクサンドラ)。
他者にはほとんど情愛を示さなかったツァーリ・イヴァン雷帝だったが、弟ユーリイ・ヴァシーリエヴィチとウリヤーナ・ドミートリエヴナは例外で、弟の死後もウリヤーナ・ドミートリエヴナには何くれとなく気を配ったらしい。彼女のために庵室を建ててやったり、高官を彼女付きにしたり、土地を寄進したりしている。
しかし、1565年にオプリーチニナ体制がスタートすると、ウリヤーナ・ドミートリエヴナはヴォスクレセーンスキイ女子修道院に移り、ここからイヴァン雷帝を批判。最終的にはイヴァン雷帝の命により処刑された。