ミハイール・ユーリエヴィチ
Михаил Юрьевич
スーズダリ公 князь Суздальский (1154-55)
トルチェスク公 князь Торческий (1169-73)
ヴラディーミル大公 великий князь Владимирский (1176-77)
生:?
没:1177.06.20−ゴロデーツ=ヴォルジュスキイ
父:ロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイ (キエフ大公ヴラディーミル・モノマーフ)
母:オリガ (ビザンティン皇女)
結婚:
& フェオファーニヤ -1202
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
母親不詳 | |||
プレブラーナ | チェルニーゴフ公ヴラディーミル |
第9世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。
一般的には «ミハルコ Михалко» と呼ばれている(ミハイールが民間で崩れた形)。
生年は不明。厳密に言えば母親も不明だが、おそらくは、一般的に言われているように、父の後妻だったろう。つまりは兄のアンドレイ・ボゴリューブスキイとは異母ということになる。
父は1155年にキエフを目指して南下したが、この時本領のロストーフ=スーズダリにはミハルコとフセーヴォロド大巣公を残している。これはこのふたりが当時まだ生まれたばかりの同母兄弟だったからではないだろうか。
何に依ったか、ミハルコ・ユーリエヴィチの生年を1151年としている文献がある。
1155年にキエフを奪還した時点で父は、自分の死後、ミハルコとフセーヴォロド大巣公にロストーフ=スーズダリを与えようと考えていたとされる。年長の兄たちはすべて南ルーシに率いてきており、かれらには南ルーシに領土を与えている。
しかしこの構想は、父がキエフ大公に擬していたアンドレイ・ボゴリューブスキイが南ルーシを棄ててロストーフ=スーズダリに戻ってきてしまったことで、破綻した。ロストーフ=スーズダリにおける実権はアンドレイ・ボゴリューブスキイが握った。
1157年、父が死去。後を継いだアンドレイ・ボゴリューブスキイは «個人独裁» を志向しており、おそらくそのためだろう、ミハルコ・ユーリエヴィチも分領をもらっていないようだ(まだ幼かったということもあるのかもしれないが)。
あまつさえアンドレイ・ボゴリューブスキイは1161年頃、継母の «ビザンティン皇女» と異母弟たちをコンスタンティノープルに追放してしまう。ムスティスラーフ、ヴァシリコ、フセーヴォロドなどはいずれもビザンティンに追放された口だと考えられ、おそらくはミハルコの同母兄弟だったのだろう。
この時期のかれらについてはあまりよくわかっておらず、ミハルコ・ユーリエヴィチも例外ではない。しかしコンスタンティノープルに赴いたとされる兄弟と違って、ミハルコ・ユーリエヴィチは、1160年代はペレヤスラーヴリ(=ユージュヌィイ)のグレープ・ユーリエヴィチのもとにいたとも言われる(タティーシチェフはゴロデーツ=オステョールスキイにいたとしている。ゴロデーツ=オステョールスキイもペレヤスラーヴリ公領にある)。
そもそも、上述のように、ミハルコ・ユーリエヴィチの母親が父の先妻だったのか後妻だったのかも必ずしも確定できていない。アンドレイ・ボゴリューブスキイによって同母弟として南ルーシに派遣されたということも考え得る。それとも異母弟としてコンスタンティノープルに追放されたが、ひとりだけ後に残ってグレープ・ユーリエヴィチのもとに身を寄せた、ということだろうか。もちろん、ペレヤスラーヴリにいたとして、の話だが。
いつ頃、誰からトルチェスクをもらったかもはっきりしない。しかしキエフ公領にあるトルチェスクを与え得るのは時のキエフ大公だけであり、普通に考えて異母兄アンドレイ・ボゴリューブスキイがキエフを掌握した1169年以降ということになるだろう。
コンスタンティノープルに追放されていたフセーヴォロド大巣公は、1169年にルーシに帰還した。ミハルコ・ユーリエヴィチもまたコンスタンティノープルに追放されていたとしても、同時期にルーシに帰還しただろう。
事実、1168年にキエフ大公ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチが派遣したポーロヴェツ遠征には、ミハルコ・ユーリエヴィチも従軍していたらしい(グレープ・ユーリエヴィチも従軍している)。
1169年、アンドレイ・ボゴリューブスキイがムスティスラーフ・イジャスラーヴィチをキエフから追い、グレープ・ユーリエヴィチをキエフ大公に据えた。ミハルコ・ユーリエヴィチはその命を受けてポーロヴェツ遠征に出陣。自ら負傷しながらもポーロヴェツ人を打ち破った。
1171年、グレープ・ユーリエヴィチが死去。ミハルコ・ユーリエヴィチは兄の後を継いで自らキエフ大公になろうとしたようだが、スモレンスク系のロスティスラーヴィチ兄弟がヴラディーミル・マーチェシチをキエフ大公とした。しかしヴラディーミル・マーチェシチはアンドレイ・ボゴリューブスキイの気に入らず、アンドレイ・ボゴリューブスキイはヴラディーミル・マーチェシチを追い、代わってロスティスラーヴィチ兄弟のロマーンをキエフ大公とした。
当時アンドレイ・ボゴリューブスキイとロスティスラーヴィチ兄弟は同盟関係にあったが、しかしその後すぐにこの同盟関係は崩れる。
1173年、アンドレイ・ボゴリューブスキイはロスティスラーヴィチ兄弟に、南ルーシを去るよう要求。スモレンスクに逃げ帰ったロマーン・ロスティスラーヴィチに替えて、ミハルコ・ユーリエヴィチをキエフ大公とした。
もっともミハルコ・ユーリエヴィチは、自らはトルチェスクにとどまってキエフには赴かず、末弟のフセーヴォロド大巣公と甥のヤロポルク・ロスティスラーヴィチをキエフに派遣した。
ロスティスラーヴィチ兄弟は反撃し、フセーヴォロド大巣公とヤロポルク・ロスティスラーヴィチは捕虜となる。今度はリューリク・ロスティスラーヴィチがキエフ大公となり、さらにミハルコ・ユーリエヴィチのいるトルチェスクに侵攻してきた。ミハルコ・ユーリエヴィチは自分の分領を護るためにリューリク・ロスティスラーヴィチと講和。アンドレイ・ボゴリューブスキイとチェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチの両者を敵としてロスティスラーヴィチ兄弟と攻守同盟を結び、ペレヤスラーヴリ(=ユージュヌィー)をもらう。
これに対してアンドレイ・ボゴリューブスキイとスヴャトスラーフ・フセヴォローディチの連合軍がキエフに侵攻。ミハルコ・ユーリエヴィチはロスティスラーヴィチ兄弟との攻守同盟をあっさり棄てて、連合軍側に寝返った。しかし連合軍はロスティスラーヴィチ兄弟に敗北し、ミハルコ・ユーリエヴィチはペレヤスラーヴリはおろかトルチェスクも棄ててスヴャトスラーフ・フセヴォローディチのもとに身を寄せた。
のち、フセーヴォロド大巣公も、さらには甥のムスティスラーフ無眼公とヤロポルクのロスティスラーヴィチ兄弟(スモレンスク系とは無関係)もチェルニーゴフに集まってきて、自前の分領を持たないヴラディーミル系諸公のたまり場となった。
1174年、ガーリチ公ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチと同盟し、ヴラディーミル軍を率いてキエフに侵攻。リューリク・ロスティスラーヴィチを追いキエフを占領した。しかしキエフには、スモレンスク系(ロスティスラーヴィチ兄弟)とヴラディーミル系(ミハルコと兄アンドレイ・ボゴリューブスキイ)のみならず、オーリゴヴィチ(スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ)も、またさらにヴォルィニ系(ルーツク公ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチ)も食指を伸ばしており、キエフ情勢は混沌を極めていた。
1175年(74年)、アンドレイ・ボゴリューブスキイが死去。これがミハルコ・ユーリエヴィチの生涯を大きく変えた。以後、ミハルコ・ユーリエヴィチは際限のない争いが繰り返されるキエフに見切りをつけたか、北東ルーシの獲得に専念することになる。
北東ルーシの呼び名は、かつてはロストーフだったが、父ユーリイ・ドルゴルーキイの代にはスーズダリを主都としてロストーフ=スーズダリとなり、その後兄アンドレイ・ボゴリューブスキイがヴラディーミルに遷都してヴラディーミル=スーズダリと呼ばれるようになっていた。
北東ルーシのボヤーリンたちは、ロスティスラーヴィチ兄弟(ムスティスラーフ無眼公とヤロポルク)を後継者として招いた。しかし年長権はアンドレイ・ボゴリューブスキイの弟であるミハルコ・ユーリエヴィチにあり、こうして甥のロスティスラーヴィチ兄弟と叔父のユーリエヴィチ兄弟(ミハルコとフセーヴォロド大巣公)とが対立する。
ロスティスラーヴィチ兄弟を招いたボヤーリンたちは、北東ルーシの古都ロストーフとスーズダリを根城としていた。アンドレイ・ボゴリューブスキイはこれを嫌い、ヴラディーミルに遷都。そのヴラディーミルとペレヤスラーヴリ(=ザレスキイ)はミハルコ・ユーリエヴィチを支持した。ロスティスラーヴィチ兄弟とユーリエヴィチ兄弟の対立は、同時に、北東ルーシにおける伝統勢力と新興勢力との対立という側面もあったようだ。
一旦はヴラディーミルに入城したミハルコ・ユーリエヴィチだったが、ムーロム公ユーリイ・ヴラディーミロヴィチ、リャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチの支援を得たロストーフ・スーズダリ軍がヴラディーミルを攻囲。ミハルコ・ユーリエヴィチはチェルニーゴフ(ペレヤスラーヴリ=ザレスキイ?)に逃亡することを余儀なくされた。
1176年(75年)、ミハルコ・ユーリエヴィチは、ヴラディーミルとペレヤスラーヴリの市民に乞われ、フセーヴォロド大巣公とヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチ(チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチの子)とともに、再度ヴラディーミルに向かう。しかし途中で病気になり、モスクワへ。ここでユーリイ・アンドレーエヴィチ(アンドレイ・ボゴリューブスキイの遺児)とも合流。
ミハルコ・ユーリエヴィチはムスティスラーフ無眼公の軍を破り、ムスティスラーフ無眼公はノーヴゴロドへ、その報せを聞いたヤロポルク・ロスティスラーヴィチはリャザニへ逃亡。ミハルコ・ユーリエヴィチはヴラディーミルに入城した。
ロストーフとスーズダリも屈服させ、フセーヴォロド大巣公にペレヤスラーヴリ(ロストーフ?)を委ねて、ミハルコ・ユーリエヴィチはリャザニ侵攻を準備するが、リャザニ公グレープ・ロスティスラーヴィチが屈服し、北東ルーシにおけるミハルコ・ユーリエヴィチの支配権が確立した。
しかし何をする間もなく、1176年、ゴロデーツ(ヴォルガ河畔の)に赴いた際に病気に罹り、そのまま死去。