イヴァン・ユーリエヴィチ
Иван Юрьевич
クールスク公 князь Курский (1146)
生:?
没:1146.02.24−コロテスク
父:ロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイ (キエフ大公ヴラディーミル・モノマーフ)
母:? (ポーロヴェツ人のハーン・アエパ)
結婚:?
子:?
第9世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。
生年は不明。
その経歴からしてユーリエヴィチ兄弟の中では年長であったと考えられ、通常は次男か三男に擬されている。とすると、両親の結婚が1108年であるから、イヴァン・ユーリエヴィチの生年は1110年か1111年といったところだろう。ただしアンドレイ・ボゴリューブスキイとの長幼の順は不明。
なお、私見(と言うより私的な妄想)についてはロスティスラーフ・ユーリエヴィチの項を参照のこと。
1146年、キエフ大公フセーヴォロド・オーリゴヴィチが死去。キエフ大公にはイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチが就任するが、それとともにリューリコヴィチの内紛が激化した。ひとつには、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチが叔父であるユーリイ・ドルゴルーキイの年長権を侵害したこと、もうひとつには、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチのキエフ大公位就任に際してイーゴリ・オーリゴヴィチが殺されたこと(イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ個人はこれには関与していない)。このため、父はイーゴリ・オーリゴヴィチの弟であるノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチと同盟。
イヴァン・ユーリエヴィチは、さっそく最前線でイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチと戦うスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチの支援に派遣される。
イヴァン・ユーリエヴィチはスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチからクールスクを分領としてもらうが、やがて病を得て死去(1146年か47年)。遺骸は、その死を悼んだ弟のグレーブ & ボリースによりスーズダリに運ばれた。