グレーブ・ユーリエヴィチ
Глеб Юрьевич
クールスク公 князь Курский (1147)
カーネフ公 князь Каневский (1149)
ペレヤスラーヴリ公 князь Переяславский (1155-69)
キエフ大公 великий князь Киевский (1169、70-71)
生:?
没:1171.01.20−キエフ
父:ロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイ (キエフ大公ヴラディーミル・モノマーフ)
母:? (ポーロヴェツ人のハーン・アエパ)
結婚①:
& ? -1154 (ノーヴゴロド公ピョートル・ミハイロヴィチ?)
結婚②:1156
& ? (チェルニーゴフ公イズャスラーフ・ダヴィドヴィチ)
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
イジャスラーヴナと | |||
1 | ヴラディーミル | 1157-87 | ペレヤスラーヴリ |
2 | イジャスラーフ | -1184 | |
3 | オリガ | フセーヴォロド・ブイ=トゥール |
第9世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。
生年は不明。私見(と言うよりは私的な妄想)についてはロスティスラーフ・ユーリエヴィチの項を参照のこと。
経歴からすると、グレーブ・ユーリエヴィチはユーリエヴィチ兄弟の中では年長組に属したと思われる。その場合、どう考えても長兄であろうロスティスラーフは別格として、年代記への初登場がほぼ同時期となるアンドレイ、イヴァン、ボリースとグレーブとの長幼の順が問題。たいていの文献ではグレーブはボリースの前の四男に位置付けられている。
ロスティスラーフ死後に父がキエフ大公位の後継者に擬したのがアンドレイだ、と一般的に言われているが、1155年の時点でアンドレイはヴィーシュゴロド公、グレーブはペレヤスラーヴリ公となっている。歴代ペレヤスラーヴリ公を見てみると、むしろ後継者に擬されたのはグレーブではないかとも思える。事実1149年の段階ではペレヤスラーヴリ公とされたのは長兄のロスティスラーフである。
ペレヤスラーヴリ公 | キエフ大公 | 関係 |
---|---|---|
フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチ | イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチ | 弟(ナンバー3) |
ロスティスラーフ・フセヴォローディチ | フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチ | 次男(ナンバー3) |
ヴラディーミル・モノマーフ | スヴャトポルク・イジャスラーヴィチ | 従兄弟(ナンバー2) |
スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | ヴラディーミル・モノマーフ | 生き残った内の次男(ナンバー3) |
ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチ | 生き残った内の次男(ナンバー3) | |
フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチ | ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチ | 兄の長男 |
イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ | 兄の次男 | |
ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | 次弟(ナンバー2) | |
ユーリイ・ドルゴルーキイ | その次の弟(ナンバー3) | |
アンドレイ善良公 | その次の弟(ナンバー4) | |
ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | フセーヴォロド・オーリゴヴィチ | (前キエフ大公) |
イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ | 娘婿 | |
ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ | イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ | 長男(ナンバー3) |
ロスティスラーフ・ユーリエヴィチ | ユーリイ・ドルゴルーキイ | 長男(ナンバー2) |
ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ | イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ | 長男(ナンバー3) |
グレーブ・ユーリエヴィチ | ユーリイ・ドルゴルーキイ | ? |
ナンバー2とかナンバー3とかの表記は便宜上のものでしかないが、ペレヤスラーヴリ公からそのままキエフ大公に «昇進» している者が多数いることも、ペレヤスラーヴリ公位の重要性を物語っている。これに対してヴィーシュゴロド公は、そもそもその歴史がほとんどなく、ヴィーシュゴロド公からキエフ大公となった者はスヴャトポルク・オカヤンヌィーだけである。
もっともヴラディーミル・モノマーフは、1117年にノーヴゴロドから南ルーシに長男ムスティスラーフ偉大公を呼び寄せた際、ペレヤスラーヴリ公ではなくベールゴロド公としている。ペレヤスラーヴリ公は次男のヤロポルク・ヴラディーミロヴィチであったから、ペレヤスラーヴリ公よりベールゴロド公の方が格上ということになる。その時々の状況によってはそういう場合もあるということだ。
父の死後に本領ロストーフ=スーズダリを継いだのがアンドレイ・ボゴリューブスキイであり、グレーブ・ユーリエヴィチが南ルーシにとどまった点に関しても、これは時代が逆転するが、ヴラディーミル・リューリコヴィチがスモレンスク公位を棄てて南ルーシに去った事例も思い合わせてみれば、さほど異とするに足らない。当時はそれだけキエフ大公(になれるかもしれないという可能性)に魅力があったということだろう。
アンドレイ・ボゴリューブスキイを兄としグレーブ・ユーリエヴィチを弟とする通説を否定するつもりはないが、その逆であったとしても決しておかしくはないということだけは言えるだろう。
1146年(47年)、クールスクで病死した兄イヴァン・ユーリエヴィチの遺体を弟ボリース・ユーリエヴィチとともに引き取りに赴き、スーズダリに運んだ。
1147年、父により、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチの支援に派遣される。スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチは当時、キエフ大公イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチと争っていた。ノーヴゴロド=セーヴェルスキイからイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチを追い出すことに成功したスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチは、グレーブ・ユーリエヴィチにクールスクを与える。グレーブ・ユーリエヴィチはさらに、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチからゴロデーツ(=オステョールスキイ)を奪う。
同年、ムスティスラーフ(イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの子)の支配に不満を覚えるペレヤスラーヴリ市民の要請で、グレーブ・ユーリエヴィチはペレヤスラーヴリへ。しかしムスティスラーフ・イジャスラーヴィチに撃退され、さらに逃げ込んだゴロデーツをイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチに攻囲される。グレーブ・ユーリエヴィチはイジャスラーフ & ムスティスラーフ父子と講和した。
しかしイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがキエフに帰還するや否や、グレーブ・ユーリエヴィチはチェルニーゴフ公ヴラディーミル・ダヴィドヴィチと反イジャスラーフ同盟を結ぶ。
当時は、一方にはグレーブ・ユーリエヴィチにとって従兄弟にあたるイジャスラーフ & スモレンスク公ロスティスラーフのムスティスラーヴィチ兄弟、他方には父とスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチの連合とがあって、激しく覇権を争っていた。
その中にあって、スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチの従兄弟であるヴラディーミル・ダヴィドヴィチは変節常なく、実際翌1148年にはイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチと講和した。これによりクールスクはイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチに割譲され、グレーブ・ユーリエヴィチはスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチのもとに逃げ込んだ。
1149年、父がキエフを征服し、グレーブ・ユーリエヴィチはカーネフを与えられた。1150年、ペレソープニツァとドロゴブージュを与えられる。本領ヴォルィニに逃げ帰ったイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチからキエフを護る任務を委ねられるが、敗北。グレーブ・ユーリエヴィチはキエフに逃げ帰る。以後、父のもとに。
なお、キエフは結局イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチにより奪還され、この後4年間はその支配が続いた。
1150年(51年?)、長兄ロスティスラーフ・ユーリエヴィチが死ぬと、アンドレイ・ボゴリューブスキイ、ムスティスラーフ・ユーリエヴィチとともにその遺体をペレヤスラーヴリに埋葬した。
1154年、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチが死去し、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチが後を継いだ。これにより再びキエフ大公位奪取を目論んだ父により、グレーブ・ユーリエヴィチはポーロヴェツ人のもとに派遣される。
1155年、ポーロヴェツ人を率いてペレヤスラーヴリを攻囲。キエフではイジャスラーフ・ダヴィドヴィチがロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチを追い出して大公位を獲得し、グレーブ・ユーリエヴィチにペレヤスラーヴリを与えた。
同年、父が再びキエフ大公に。グレーブ・ユーリエヴィチはイジャスラーフ・ダヴィドヴィチの娘と結婚する。父とイジャスラーフ・ダヴィドヴィチの関係改善の一環だったのだろう。
1157年、父が死去。キエフ大公にはイジャスラーフ・ダヴィドヴィチが就任した。
グレーブ・ユーリエヴィチは、娘婿だったためか、そのままペレヤスラーヴリ公としてとどまることが許された。弟ヴァシリコ・ユーリエヴィチもポローシエの領有を続けており、グレーブ・ユーリエヴィチがイジャスラーフ・ダヴィドヴィチの娘と結婚したことで、ほかの兄弟も利益を得たということだろう。
しかし翌1158年、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチはキエフを追われる。この時グレーブ・ユーリエヴィチは義父を支援しなかった。このため、ステップに逃れたイジャスラーフ・ダヴィドヴィチは、ポーロヴェツ人を率いてペレヤスラーヴリを攻囲したりしている。
他方、1159年にキエフ大公となったロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチも、グレーブ・ユーリエヴィチにペレヤスラーヴリ公領の領有を認めている。上記の表にあるように、キエフ大公はしばしば自分の最近親者をペレヤスラーヴリ公としている。あまつさえロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチは息子たちを引き連れて南ルーシにやってきた。となれば、グレーブ・ユーリエヴィチがペレヤスラーヴリを取り上げられても何ら不思議はない(たしかにグレーブ・ユーリエヴィチはロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの従兄弟ではあったが)。これはつまり、事前に両者の合意が成っていたということだろうか。
1167年、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチが死去。ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチがキエフ大公位を継いだ。この時もグレーブ・ユーリエヴィチは、ペレヤスラーヴリ公位の領有を認められている。
1168年にはムスティスラーフ・イジャスラーヴィチに従いポーロヴェツ人遠征。
1169年、アンドレイ・ボゴリューブスキイの派遣したムスティスラーフ・アンドレーエヴィチ率いるヴラディーミル軍に合流。ほかの9人の公とともにキエフを攻略。ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチを追い、アンドレイ・ボゴリューブスキイにキエフを与えられた。
という書き方が普通されているが、アンドレイ・ボゴリューブスキイとは無関係に、「グレーブ・ユーリエヴィチがキエフ大公位を奪った」と考えることもできる。もっともアンドレイ・ボゴリューブスキイが軍を派遣したのは事実で、ロスティスラーヴィチ兄弟(ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの子ら)も従軍している。
ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチとムスティスラーフ・イジャスラーヴィチとは叔父、甥の間柄で、かなり密接な関係にあった。ところが晩年、両者の関係は緊張したものとなっていた。結局ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの死後、その子らはむしろムスティスラーフ・イジャスラーヴィチと敵対し、アンドレイ・ボゴリューブスキイやグレーブ・ユーリエヴィチらに接近していた。
グレーブ・ユーリエヴィチは弟ミハルコ・ユーリエヴィチをポーロヴェツ人遠征に派遣し、自身もペレヤスラーヴリまで出陣。
しかしその間にムスティスラーフ・イジャスラーヴィチがキエフを奪還。これに対してムスティスラーヴィチ兄弟が一致団結して反対。ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチはヴォルィニに逃げ帰り、グレーブ・ユーリエヴィチがキエフ大公に返り咲いた。
没年はよくわからない。1170年、1171年、1172年の3説が混在している。
父の傍らに埋葬されている。