フョードル・ユーリエヴィチ・ロモダーノフスキイ
Федор Юрьевич Ромодановский
公 князь
生:1640頃
没:1717.09.17
父:ユーリイ・イヴァーノヴィチ・ロモダーノフスキイ公 (イヴァン・グリゴーリエヴィチ・ロモダーノフスキイ公)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | ||
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母親不詳 | |||
イヴァン | -1730 | ||
フェオドーシヤ | アブラーム・ロプヒーン | ||
イリーナ | ヴァシーリイ・シェレメーテフ |
第22世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。ロシア貴族。
プレオブラジェンスコエ村以来のピョートル大帝の側近で、のち右腕。30年にわたりプレオブラジェンスキイ・プリカーズの長官を務め(1686-1717)、アゾーフ遠征後は事実上の宰相。
«プレスブルク王» として、«ポーランド王» ピョートル・ブトゥルリーンとともに «遊戯連隊»(ピョートル大帝の戦争ごっこ仲間。これがのちにプレオブラジェンスキイ連隊、セミョーノフスキイ連隊となる)を二分して «戦闘»(ピョートル大帝は一兵士)。その勝利を讃えて、1694年には «クニャージ=ケーサリ»(クニャージは公だが、ケーサリは古代ローマのカエサル)の称号を与えられている。のちにはさらに大元帥にも(当然これは公的な階級ではない)。
アゾーフ遠征(1695-96)と大使節団(1697-98)でピョートル大帝不在の折には、事実上の摂政。
死後は、ピョートル大帝が皇族の埋葬場所として建設したアレクサンドル・ネフスキイ大修道院に埋葬された。