フョードル・ダヴィドヴィチ
Федор Давыдович
ガーリチ=メールスキイ公 князь Галича-Мерского (1310-35)
生:?
没:?
父:ガーリチ=メールスキイ公ダヴィド・コンスタンティーノヴィチ (ガーリチ=メールスキイ公コンスタンティーン・ヤロスラーヴィチ)
母:? ヤロスラーヴリ公フョードル黒公)?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | ||
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母親不詳 | |||
1 | イヴァン | -1354 | ガーリチ |
第13世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。
両親の結婚は1276年、父の死は1280年。フョードル・ダヴィドヴィチは、父が死んだ時点ではまだほんの幼児だった(弟ボリースがいたので、生まれたばかりとは言えない)。
父の分領はドミートロフとガーリチ=メールスキイだったが、父の死後これらが一括して叔父ヴァシーリイ・コンスタンティーノヴィチに継がれたのか、それともドミートロフだけはフョードル・ダヴィドヴィチが継いだのか、はっきりしない。
ヴァシーリイ・コンスタンティーノヴィチは1310年に死んでいるので、この時フョードル・ダヴィドヴィチがガーリチ=メールスキイを相続した。しかしドミートロフについてはわからない。少なくとも1334年に弟ボリース・ダヴィドヴィチが死んだ時点ではボリース・ダヴィドヴィチがドミートロフ公で、両都市は分割されていた。
フョードル・ダヴィドヴィチも翌1335年に死んだ(らしい)。