ボリース・ユーリエヴィチ
Борис Юрьевич
ベールゴロド公 князь Белгородский (1149-50)
トゥーロフ公 князь Туровский (1156-57)
生:?
没:1159.05.02−スーズダリ
父:ロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイ (キエフ大公ヴラディーミル・モノマーフ)
母:? (ポーロヴェツ人のハーン・アエパ)
結婚:
& マリーヤ
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
母親不詳 | |||
1 | エヴフロシーニヤ | -1202 | ピンスク公ヤロスラーフ |
第9世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。
生年は不明。ロスティスラーフを別格として、アンドレイ、イヴァン、グレーブ、そしてボリースは、年代記への初登場も同時期で、それだけでは長幼の順、そして生年は推測できない。しかしその後の経歴などから、およそ上記のとおりの順だと一般的に考えられているようだ。
厳密には母親も不明と言うべきかもしれないが、一般的に父の先妻であるアエパ・ハーンの娘とされている。とすると、両親の結婚が1108年である以上、ボリース・ユーリエヴィチは1110年代(半ば?)の生まれと考えてよかろう(私見についてはロスティスラーフの項を参照)。
1146年、クールスクで病死した兄イヴァン・ユーリエヴィチの遺体を兄グレーブ・ユーリエヴィチとともに引き取りに赴き、スーズダリに運んだ。
1149年、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチからキエフ大公位を奪った父により、ボリース・ユーリエヴィチはベールゴロド公とされる。
1150年、キエフ奪回を目指すイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがキエフに迫り、弟ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチをベールゴロドに派遣した。この時ボリース・ユーリエヴィチはこれに気付かず(年代記は従士団と一緒に酔っぱらっていたと実しやかに記している)、危うく捕虜となりかけたところ、ベールゴロドからの逃亡に成功した。
1155年、父が再びキエフ大公に返り咲き、ボリース・ユーリエヴィチはトゥーロフに派遣される(トゥーロフ公とされたのは翌1156年だとも言われる)。
1157年、父が死去。この年、ボリース・ユーリエヴィチはトゥーロフ公位を失っている。後任のトゥーロフ公にはイジャスラーヴィチ一族のユーリイ・ヤロスラーヴィチが就任している。
ボリース・ユーリエヴィチがトゥーロフ公位を失った事情については2説ある。ひとつには、生前の父によりロストーフ=スーズダリに派遣されたとするもの。ユーリイ・ヤロスラーヴィチは父の与党であり、トゥーロフはユーリイ・ヤロスラーヴィチの «ヴォーッチナ(父祖の地)» であった。このような事情を考えれば、父がトゥーロフを息子から取り上げてユーリイ・ヤロスラーヴィチに与えるということもあり得ないではない。
もうひとつは、単純に父が死んだのでユーリイ・ヤロスラーヴィチによりトゥーロフから追われたのだとするもの。
トゥーロフを失った事情がどちらであれ、ボリース・ユーリエヴィチがどうやら «出来の悪い» 息子であった事実を物語っていると言えるだろう。
しかしロストーフ=スーズダリには、すでにアンドレイ・ボゴリューブスキイがいた。アンドレイ・ボゴリューブスキイは弟たちに分領を与えず、このためボリース・ユーリエヴィチも無為徒食状態に置かれたようだ。
スーズダリに葬られている。