アンドレイ・ドミートリエヴィチ・パレツキイ
Андрей Дмитрьевич Палецкий
公 князь
生:?
没:1579
父:ドミートリイ・フョードロヴィチ・パレツキイ公 (フョードル・イヴァーノヴィチ・パレツキイ公)
母:?
結婚:?
子:なし
第19世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。ロシア貴族。
ツァーリ・イヴァン雷帝の弟ユーリイ・ヴァシーリエヴィチの妃ウリヤーナ・ドミートリエヴナの兄弟。つまりはイヴァン雷帝の親族となるわけだが、特段それで優遇されたりという形跡は見られない。
1565年、オリョールで、続いてノヴォシーリで総督。さらにヴェリーキエ・ルーキに派遣され、リトアニアとの戦闘に従事。1566年には聖俗会議に出席し、リトアニア側からの講和要請を検討したが、アンドレイ・ドミートリエヴィチは戦争継続を強く主張している。
1569年からノヴォシーリ総督を務め、クリム・ハーン軍との戦闘に従事。連年のように侵攻するタタール軍を撃退した。
1573年にはカザニに赴き、チェレミース人の蜂起を鎮圧。
その後は終盤を迎えたリヴォニア戦争へ。レーネヴァルデン、タルトゥ、ヴェンデン等の防衛や奪取に活躍した。
1578年にはシーツキイ公との間に門地制度上の論争が生じ、ロシア軍の停滞した間にスウェーデン軍と合流したリトアニア軍がロシア軍に殺到。アンドレイ・ドミートリエヴィチはタルトゥに逃げ帰った。
門地制度上の論争で軍事行動が疎外されるのは日常茶飯事で、アンドレイ・ドミートリエヴィチも特段処罰されることなく、その年のうちに別の戦略拠点に軍司令官として派遣されている。しかしこの戦略拠点がリトアニア軍に攻められ、アンドレイ・ドミートリエヴィチは戦死した。