ユーリイ・フセヴォローディチ
Юрий Всеволодич
ホルム公 князь Холмский (1364-1408)
生:?
没:1408
父:ホルム公フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチ (トヴェーリ大公アレクサンドル・ミハイロヴィチ)
母:ソフィヤ (リャザニ大公イヴァン・コロトポル)
結婚:?
子:
名 | 生没年 | ||
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母親不詳 | |||
1 | ドミートリイ |
第15世代。モノマーシチ(トヴェーリ系)。
生年は不明。強いて推測するなら、弟と思われるイヴァン・フセヴォローディチが1350年代初頭の生まれと想像されるので、ユーリイは1350年頃というところだろうか。
父の正確な没年は文献によって異なるが、1364年頃から流行した疫病が死因であることは間違いない。ユーリイ・フセヴォローディチは遺領を継ぐが、弟イヴァンには特段の分領を与えなかったようだ(一部地域の統治を委ねただけ)。
ルーシでは兄弟相続(正確には年長者相続)が慣習法として確立していたが、モンゴルの襲来以来その慣習も大きく変わりつつあった。ハーンの裁定により叔父から甥が公位を奪うことが一般化しており、事実父も大叔父たちと激しくトヴェーリ公位を争っていた。長子相続はまだルーシでは確立されていなかったが(結果的にそうなったモスクワ等も含め)、甥が叔父から公位を奪う正当性は長子権にあり、1368年に自ら叔父と争ってトヴェーリ大公となったミハイール・アレクサンドロヴィチにとっては、兄の子であるユーリイとイヴァンのフセヴォローディチ兄弟は潜在的な脅威だったはずである。
詳細はよくわからないが、1397年にイヴァン・フセヴォローディチはモスクワに逃亡してモスクワ大公ヴァシーリイ1世に仕えている。あるいは兄弟喧嘩でもしたのかもしれないが、むしろ晩年を迎えて息子への公位移譲を図るミハイール・アレクサンドロヴィチが甥たちに対する締め付けを強化した結果ではないだろうか。
それかあらぬか、1399年にミハイール・アレクサンドロヴィチが死ぬと、トヴェーリ大公位はその子イヴァン・ミハイロヴィチが継ぐ。
ユーリイ・フセヴォローディチはイヴァン・ミハイロヴィチと対立するが、1401年には一旦和解した。
1402年、弟イヴァン・フセヴォローディチが死去。しかしその遺領はイヴァン・ミハイロヴィチ(の子アレクサンドル・イヴァーノヴィチ)が獲得した。
1403年、ユーリイ・フセヴォローディチはモスクワに逃亡。おそらくイヴァン・ミハイロヴィチとの対立の結果だろう。
さらにユーリイ・フセヴォローディチは1407年にはサライに赴き、トヴェーリ大公位の認可状をもらおうとする。これを知ったイヴァン・ミハイロヴィチもサライに急行。両者はハーンの前で対決するが、ハーンはイヴァン・ミハイロヴィチを支持。かれの大公位を確認すると同時に、ユーリイ・フセヴォローディチを拘束した。