ヤロスラーフ・アレクサンドロヴィチ
Ярослав Александрович
ゴロデーツ公 князь Городецкий
生:?
没:1435
父:トヴェーリ大公アレクサンドル・イヴァーノヴィチ (トヴェーリ大公イヴァン・ミハイロヴィチ)
母:? (モローガ公フョードル・ミハイロヴィチ)
結婚:?
子:?
第17世代。モノマーシチ(トヴェーリ系)。
生年は不明だが、兄たちが1400年頃の誕生と考えられているので、ヤロスラーフ・アレクサンドロヴィチも1400年代に生まれたと考えてよかろう。
1425年から26年にかけて、祖父、父、長兄が相次いで死に、次兄ボリース・アレクサンドロヴィチがトヴェーリ大公位を継ぐ。あるいはこの時にヤロスラーフ・アレクサンドロヴィチも分領をもらったのかもしれない。
その分領だが、«ゴロデーツ公» とする文献があるが、このゴロデーツがどこのことかはよくわからない。トヴェーリ州にはそういう名の集落が存在するが、隣接するスモレンスク州にもモスクワ州にもあるし、ゴロードニャやゴローッツィといった類似の名を持つ都市・集落も無数にある(この «ゴロデーツ» が本当にゴロデーツという名か、昔も今も同じ名か、必ずしもはっきりしない)。
もし、現在トヴェーリ州に存在する集落のことであれば、トヴェーリ州の西部。トヴェーリとプスコーフの中間辺りに位置する。
1432年、リトアニアに亡命。
ただし当時ヤロスラーフ・アレクサンドロヴィチが亡命しなければならない状況は考えづらく、兄のトヴェーリ大公ボリース・アレクサンドロヴィチにより派遣されたということではないだろうか。その後帰国することがなかったため、結果として亡命したのと同じことになったということではないかと思われる。
当時リトアニアでは、1430年の大公ヴィタウタス死後の混乱が続いていた。リトアニア貴族はポーランド王ヨガイラの弟シュヴィトリガイラを大公に選ぶが、これにポーランド貴族が反発。さらにこれにヴィタウタスの弟ジギマンタスが絡んで、事態は複雑化していた。ジギマンタスはヨガイラと結び、1432年にはリトアニア大公として認められる。しかしシュヴィトリガイラは正教徒のルーシ貴族を支持基盤として抵抗を継続。
ヤロスラーフ・アレクサンドロヴィチはシュヴィトリガイラを支持して(兄のボリース・アレクサンドロヴィチがシュヴィトリガイラと同盟していた)、ジギマンタス軍と戦う。
1435年、大公位の奪回をかけた乾坤一擲のパバイスカス/ヴィウコミェシュの戦い(ロシア語ではヴィリコミールの戦い)でヤロスラーフ・アレクサンドロヴィチは戦死する。