ダニイール・ドミートリエヴィチ・ホルムスキイ
Даниил Дмитриевич Холмский
公 князь
生:?
没:1493/95
父:ホルム公ドミートリイ・ユーリエヴィチ (ホルム公ユーリイ・フセヴォローディチ)
母:?
結婚:
& ヴァシリーサ (イヴァン・イヴァーノヴィチ・フセヴォロージュスキイ)
子:
名 | 生没年 | ||
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母親不詳 | |||
1 | セミョーン | ||
2 | ヴァシーリイ | -1524 |
第17世代。モノマーシチ(トヴェーリ系)。
生年は不明。父の生没年も不明だが、父の死後、ホルム公位は兄ミハイール・ドミートリエヴィチが継いだ。
1460年代(1468年?)、トヴェーリを離れ、モスクワ大公イヴァン3世大帝に仕えるようになる。特に軍司令官として活躍。
ムーロム総督。1468年、ムーロムに侵攻したカザン・ハーン軍を破る。1469年にはカザンに侵攻。イブラヒムを屈服させ、この結果カザン・ハーン国はモスクワに従属することになった。
1471年、ノーヴゴロド侵攻に際しては、前衛を指揮。各地でノーヴゴロド軍を撃破し、特にシェロニ河畔の戦いではノーヴゴロドとリヴォニア騎士団の連合軍を壊滅させる活躍を見せた。この結果、ノーヴゴロドもモスクワに従属することになった。
1472年、侵攻してきたキプチャク・ハーン軍を迎え撃つ。ただしキプチャク・ハーン軍は戦わずしてステップに撤退していった。
1474年にはプスコーフに派遣され、リヴォニア騎士団と戦い、これを破って、プスコーフと講和を結ばせた。
その軍事的功績を妬まれたか、ボヤーリンたちから裏切りの嫌疑をかけられる。しかし聖職者や官僚たちの取り成しで、イヴァン3世に罰せられることはなかった。
1477年、モスクワ軍を率い、ノーヴゴロドを降伏させる。こうして1478年、ノーヴゴロドは最終的にモスクワ大公領に併合された。
1480年、アフマト・ハーンの軍とウグラ河畔で睨み合う。
1482年、プスコーフとリトアニアとの間に講和を調停。
1487年、改めてカザンに侵攻。カザンを陥とし、アリ=ハーン(アレガム)を捕虜とする。
1492年、チェルニーゴフを巡ってリトアニアと戦う。