アレクサンドル・ミハイロヴィチ «オルドィネツ»
Александр Михайлович "Ордынец"
カーシン公 князь Кашинский (1382-89)
生:?
没:1389
父:トヴェーリ大公ミハイール・アレクサンドロヴィチ (トヴェーリ大公アレクサンドル・ミハイロヴィチ)
母:エヴドキーヤ (スーズダリ公アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ)
結婚:?
子:?
第15世代。モノマーシチ(トヴェーリ系)。
生年は不明。両親はいつの間にか結婚していたので、アレクサンドル・オルドィネツ(ここでは特別に添え名をつけて呼ぶ)の生年を想像するのも一苦労である。と言うのも、父の跡を継いだイヴァン(1357年生)とアレクサンドル・オルドィネツとの長幼の順がはっきりしないからである。
事態をさらに混乱させているのは、もうひとりのアレクサンドルの存在で、ミハイロヴィチ兄弟には1357/58/59年に死んだアレクサンドルという兄弟がいた。没年からしておそらくイヴァンより年長だと思われるが、アレクサンドル・オルドィネツはこのふたりよりも年長だったのか、アレクサンドルとイヴァンの間に位置するのか、ふたりより年少だったのか。一昔前であれば兄の生前に弟に同じ名をつけるということはなかったので(たとえばダヴィド・ロスティスラーヴィチの子)、アレクサンドル・オルドィネツの生年は1357/58/59年以降(つまりイヴァンより年少)だと確定できたのだが、この時期には兄弟で同じ名というのが不思議でなくなっていたので(たとえばコンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチの子)、よくわからない。
1382年、一族のカーシン公ヴァシーリー・ミハイロヴィチの死で父がカーシン公領を併合し、これをアレクサンドル・オルドィネツに与えている。イヴァンよりも年長だから与えたのか、それとも年少だから(トヴェーリは継げないから)与えたのか。
もっとも、イヴァン・ミハイロヴィチは1371年から記録に現れており、1375年には結婚もしている(アレクサンドル・オルドィネツが結婚したとの記録はない)。おそらくアレクサンドル・オルドィネツが弟だっただろう。
いずれにせよ、1389年、アレクサンドル・オルドィネツは父に先立った。
添え名の «オルドィネツ» とは「オルダーの人」という意味。«オルダー» とはつまり「ウルス」のことで、モンゴル人の本営、それが転じて「〜〜ハーン国」という意味で使われる。この場合はキプチャク・ハーン国のこと。
アレクサンドル・ミハイロヴィチの素性については詳らかにしないが、あるいはサライで生まれたのか、あるいは幼少期をサライで過ごしていたのか、あるいは実は母親がほかの兄弟とは違ってキプチャク・ハーン国出身者だったのか。