聖アレクサンドル・ミハイロヴィチ
Св. Александр Михайлович
トヴェーリ公 князь Тверской (1326-27、37-39)
ヴラディーミル大公 великий князь Владимирский (1326-27)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1326-27)
プスコーフ公 князь Псковский (1328-29, 31-37)
生:1301.10.07
没:1339.10.28 (享年38)−サライ
父:トヴェーリ公ミハイール・ヤロスラーヴィチ (トヴェーリ公ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチ)
母:アンナ (ロストーフ公ドミートリイ・ボリーソヴィチ)
結婚:
& アナスタシーヤ公女 -1364 (ガリツィア王ユーリイ・リヴォーヴィチ)
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
母親不詳 | |||
1 | レフ | 1321?- | |
2 | フョードル | -1339 | |
3 | マリーヤ | -1399 | モスクワ公セミョーン傲慢公 |
4 | ウリヤーナ | -1392 | リトアニア大公アルギルダス |
5 | フセーヴォロド | 1328-64 | ホルム |
6 | アンドレイ | -1364 | ズブツォーフ |
7 | ヴラディーミル | -1364 | |
8 | ミハイール | 1333-99 | ミクーリン |
第13世代。モノマーシチ(トヴェーリ系)。ミハイール・ヤロスラーヴィチの次男。
1318年、父はサライに赴くに先だって領土を兄ドミートリイ雷眼公とアレクサンドル・ミハイロヴィチに分割した。
父はそのままサライで処刑されるが、トヴェーリ公位を継いだのは兄で、この時弟たちはともかくアレクサンドルにも分領が与えられた形跡がない。ただ単に年代記が書き落としただけだろうか。
ヴラディーミル大公位はウズベク・ハーンにより、父と敵対していたモスクワ公ユーリイ・ダニイーロヴィチに与えられた。ユーリイ・ダニイーロヴィチはサライからモスクワに帰還すると、兄と戦いを開始する。
1321年、アレクサンドル・ミハイロヴィチはドミートリイ雷眼公の代理としてペレヤスラーヴリに赴き、ユーリイ・ダニイーロヴィチと協定を結び、ユーリイ・ダニイーロヴィチのヴラディーミル大公位を認めた(この時、父の遺骸を受け取り、持ち帰った)。
1322年、アレクサンドル・ミハイロヴィチはサライに赴き、ウズベク・ハーンを説得し、ユーリイ・ダニイーロヴィチに替えてドミートリイ雷眼公をヴラディーミル大公にすることに成功。
その帰途、同じくサライに赴こうとしているユーリイ・ダニイーロヴィチを襲い、プスコーフに逃亡させる。
1325年、ウズベク・ハーンの面前でドミートリイ雷眼公がユーリイ・ダニイーロヴィチを殺す。1326年、ドミートリイ雷眼公はハーンにより処刑された。この時アレクサンドル・ミハイロヴィチもサライに伺候していた。
ウズベク・ハーンは、ヴラディーミル大公位をアレクサンドル・ミハイロヴィチに与える。この時同時に、ノーヴゴロド公としても承認される。アレクサンドル・ミハイロヴィチは、ノーヴゴロドでもヴラディーミルでもなく、トヴェーリに居住した。
1327年、トヴェーリで民衆暴動が勃発し、タタールの使節(ウズベク・ハーンの従兄弟チョル・ハーンとその一行)が殺害される。
これへのアレクサンドル・ミハイロヴィチの関与は不明だが(当初は暴動を止めようとしたが、のちにこれを率いたともされる)、しかしこれに乗じたモスクワ公イヴァン1世・カリターが、ウズベク・ハーンの命を受けて軍事介入。スーズダリ公アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチもこれに合流し、タタール軍はトヴェーリの暴動を鎮圧した。
アレクサンドル・ミハイロヴィチはノーヴゴロドに逃亡しようとするが、ノーヴゴロドは受入れを拒否。それどころかイヴァン・カリターの代官を受け入れた。ノーヴゴロドと対抗関係にあるプスコーフが受入れに同意したので、アレクサンドル・ミハイロヴィチは家族を連れてプスコーフに亡命する(コンスタンティーンとヴァシーリイの弟ふたりは母とともにラードガへ。つまりラードガもノーヴゴロドと対立していたということか?)。
1328年、ウズベク・ハーンにより戦後処理がおこなわれた。トヴェーリ公位は弟コンスタンティーン・ミハイロヴィチに与えられた。(おそらく)ヴラディーミル大公領だったゴロデーツとニージュニイ・ノーヴゴロドはアレクサンドル・ヴァシーリエヴィチに与えられた。ノーヴゴロドの支配権はイヴァン・カリターに認められた。
問題はヴラディーミル大公位で、イヴァン・カリターに与えられたとする説と、アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチに与えられたとする説、さらには両者に与えられたとする説まである。
しかし戦後処理の眼目であるアレクサンドル・ミハイロヴィチへの処罰は、アレクサンドル・ミハイロヴィチが逃げ回っている以上おこない得ない。ウズベク・ハーンはアレクサンドル・ミハイロヴィチの逮捕を執拗にルーシ諸侯に迫ったため、イヴァン・カリターを筆頭にルーシ諸侯はプスコーフに、その身柄をハーンに引き渡すよう要求。
1329年、イヴァン・カリター、アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ、さらにはコンスタンティーン・ミハイロヴィチも加わって、連名でアレクサンドル・ミハイロヴィチにサライへの出頭を要求してきた。プスコーフ市民がこれを拒むと、府主教フェオグノーストがプスコーフを破門すると脅してきた(フェオグノーストはイヴァン・カリターを支持していた)。アレクサンドル・ミハイロヴィチは家族をプスコーフに残してリトアニアに逃亡した。
1331年、リトアニア大公ゲディミナスの支援を得てプスコーフに帰還。市民はこれを迎え入れた。
アレクサンドル・ミハイロヴィチがトヴェーリに帰還した経緯については、年代がよくわからない。
アレクサンドル・ミハイロヴィチは、まず長男フョードルをサライに派遣した。これについては1336年とするのが一般的なようだが、1333年とする文献もある。
翌年、アレクサンドル・ミハイロヴィチは自らサライに伺候。ウズベク・ハーンの赦しを得て、トヴェーリ公位を回復する認可状をもらった。翌年であることから、これは1337年、あるいは1334年のこととされる。一部には1338年のこととする文献もある。1338年というのは、アレクサンドル・ミハイロヴィチがトヴェーリに帰還した年か?
コンスタンティーン・ミハイロヴィチは特に抵抗するでもなく、トヴェーリ公位を兄に明け渡した。アレクサンドル・ミハイロヴィチは10年(?)振りにトヴェーリに帰還した。
しかしかれの復位とともに、トヴェーリとモスクワの対立が再燃。イヴァン・カリターに従属していたヤロスラーヴリ公ヴァシーリイ雷眼公がこの当時イヴァン・カリターに反発しており、アレクサンドル・ミハイロヴィチに接近してきた。
さらにはアレクサンドル・ミハイロヴィチが復位したことで、それまでコンスタンティーン・ミハイロヴィチに仕えていたボヤーリンたちの中にはトヴェーリを棄ててイヴァン・カリターに鞍替えした者もいたという。
1339年、イヴァン・カリターはサライに赴き、アレクサンドル・ミハイロヴィチの悪口を言いたてた。これに動かされたか、ウズベク・ハーンはアレクサンドル・ミハイロヴィチをサライに召喚する。
アレクサンドル・ミハイロヴィチは再び長男フョードルを派遣するが、改めて召喚されると、ヴァシーリイ雷眼公、ベロオーゼロ公ロマーン・ミハイロヴィチとともにサライに赴いた。ヴァシーリイ雷眼公もロマーン・ミハイロヴィチもイヴァン・カリターの圧迫を受けていたので、サライではアレクサンドル・ミハイロヴィチを擁護してイヴァン・カリターを攻撃した。
詳細はよくわからないが、結局はウズベク・ハーンはイヴァン・カリターの思うように動いた。アレクサンドル・ミハイロヴィチは、長男フョードル共々処刑された。
遺骸はトヴェーリに葬られた。
アレクサンドルとフョードルの父子は、殉教者として正教会から聖者に列せられている。
なお、妻アナスタシーヤと3人の息子は1364年に黒死病で死んでいる。