ユーリイ・ミハイロヴィチ
Юрий Михайлович
トルーサ公 князь Торусский
生:?
没:?
父:チェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチ (チェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | ||
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母親不詳 | |||
フセーヴォロド | トルーサ | ||
セミョーン | コニンスク・スパシュスク | ||
イヴァン | ヴォルコーニ | ||
ミハイール | |||
コンスタンティーン | オボレーンスク | ||
クセーニヤ | -1313 | トヴェーリ公ヤロスラーフ |
第12世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。
生年・没年から何からほとんどわかっていない。
長兄ロスティスラーフ・ミハイロヴィチが1220年代の生まれとされているので、ユーリイ・ミハイロヴィチも、遅くとも1230年代には生まれていたと考えていいのではないだろうか。
1246年、父がサライで殺された。長兄ロスティスラーフ・ミハイロヴィチはすでにハンガリーに亡命しており、チェルニーゴフ公位は次兄ロマーン老公が継いだ。もっともチェルニーゴフ公領はモンゴルに破壊されており、ロマーン老公もチェルニーゴフではなくブリャンスクに居を構えた。
ユーリイ等、年少の弟たちも分領をもらっているが、いずれもかつてのチェルニーゴフ公領の中心であった南西部ではなく、北東部である。すなわち、セミョーンのグルーホフこそノーヴゴロド=セーヴェルスキイの近郊であるが、その分領はオカー川上流域に広がっていた。ムスティスラーフのカラーチェフはブリャンスク近郊にあり、さらにそこから北へと領土を有している。ユーリイのトルーサなどはヴラディーミル大公領との境界にほど近い。
ミハイロヴィチ兄弟、なかんずく、のちの «上流諸公» の祖となったセミョーン、ムスティスラーフ、ユーリイの3人、及びその後数世代については、種々問題がある。すなわち、3人とも、それぞれの子供が1300年前後の人物であると見られ、1220年代に生まれたと考えられるミハイロヴィチ兄弟の子とは考えづらいのである。このため、ミハイロヴィチ兄弟とそれぞれの子たちとの間には、実際には記録から抜け落ちた1、2世代が存在したのではないかと考えられている。
さらにユーリイ・ミハイロヴィチの場合は、ユーリイ・ミハイロヴィチ自身がミハイール・フセヴォローディチの子ではなく孫だったのではないかとする説もある。