ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ・オボレーンスキイ «コソーイ»

Василий Иванович Оболенский "Косой"

公 князь

生:?
没:?

父:オボレーンスク公イヴァン・コンスタンティーノヴィチオボレーンスク公コンスタンティーン・イヴァーノヴィチ
母:?

結婚:?

子:

生没年
母親不詳
イヴァン・ストリガー-1478
ヤロスラーフ-1487
アレクサンドル-1501
ピョートル・ナゴーイ
ヴァシーリイ・テレペニ
フョードル・テレペニ

第17世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。モスクワ大公の勤務公。

 1443年、キプチャク・ハーン軍がリャザニに侵攻。ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチはモスクワ軍を率いてリスタニ河畔でタタール軍と戦い、勝利を収める。

 モスクワ大公ヴァシーリイ2世盲目公を助けて、ヴァシーリイ・コソーイドミートリイ・シェミャーカと戦う。1445年にはムーロム総督として、ドミートリイ・シェミャーカと結ぶカザン・ハーンの使者を捕らえたりもした。1450年にはドミートリイ・シェミャーカの本領ガーリチ=メールスキイを占領。

 1485年、カザンに派遣される。アリー・ハーンを追い、ムハンマド・エミンを新たにハーンとする。

 モジャイスク、セールプホフの総督を歴任。1495年にはノーヴゴロド軍を率いてスウェーデンと戦う。1497年、再びカザンに派遣され、シビル・ハーン系のマムークを追い、ムハンマド・エミンを復位させた。

 記録上、その活動は実に50年以上に及ぶ。もちろんあり得ないわけではないが、当時の状況と常識からすると、むしろ後年の事績は、息子か誰かと取り違えられたのではないかと想像されるのだが。

 ピョートル・ヴァシーリエヴィチ・ナゴーイの子孫はナゴーイ=オボレーンスキイ家、ヴァシーリイ & フョードル兄弟の子孫はテレプニョーフ=オボレーンスキイ家。

 なお、添え名の «コソーイ» は「斜めの」が原義。それが転じて、「斜視の、やぶにらみの」という意味で使われている。
 この添え名の最も有名な持ち主は、言うまでもなく、ヴァシーリイ2世盲目公の終生の仇敵ヴァシーリイ・ユーリエヴィチ・コソーイである。同じ時代に、ともにヴァシーリイという名の持ち主が «コソーイ» という添え名で呼ばれたというのは非常に紛らわしく、しかもこの添え名がその意味通りに斜視の持ち主に与えられたのだとしたら、ヴァシーリイという名のやぶ睨みが同時にふたりいたことになる。あり得ない話ではないが、あるいはヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは単にヴァシーリイ・ユーリエヴィチと混同されたのかもしれない。

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最終更新日 07 03 2013

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