ミハイール・ヴラディーミロヴィチ・ドルゴルーキイ
Михаил Владимирович Долгорукий
公 князь
生:1667
没:1750
父:ヴラディーミル・ドミートリエヴィチ・ドルゴルーキイ公 (ドミートリイ・アレクセーエヴィチ・ドルゴルーキイ公)
母:?
結婚:
& エヴドキーヤ公女 1675-1729 (ユーリイ・ミハイロヴィチ・オドーエフスキイ公)
子:
名 | 生没年 | ||
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エヴドキーヤ・ユーリエヴナと | |||
アンナ | 1694-1770 | レフ・ミロスラーフスキイ | |
セルゲイ | 1695-1763 | ||
アナスタシーヤ | 1700-45 | アレクサンドル・ブリュース伯 | |
エヴドキーヤ | 1708-49 | ||
アレクサンドル | 1714-50 | ||
アグリッピナ | -1775 | ||
ヴァシーリイ | 1722-82 | ||
ピョートル |
第25世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。ロシア貴族。
皇帝ピョートル1世大帝に仕えた。1711年、元老院の創設に伴い任命された最初の10人の元老のひとり。
1718年、兄ヴァシーリイ共々、ツァレーヴィチ・アレクセイ・ペトローヴィチの逃亡支援の咎で逮捕される。しかしピョートル大帝の晩年には復権し、シベリア知事(1724-28)。
女帝アンナ・イヴァーノヴナにより、再度流刑に処される。帝権の制限を試みたヴァシーリイ・ルキーチ・ドルゴルーキイ公のとばっちりを食った形。
1741年、女帝エリザヴェータ・ペトローヴナの即位により、兄共々呼び戻される。