イヴァン・ヴァシーリエヴィチ・オボレーンスキイ «ストリガー»
Иван Васильевич Оболенский "Стрига"
公 князь
生:?
没:1478
父:ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ・オボレーンスキイ公 (オボレーンスク公イヴァン・コンスタンティーノヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | ||
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母親不詳 | |||
ヴァシーリイ | |||
イヴァン | |||
フョードル | |||
イヴァン | |||
ヴァシーリイ | |||
アレクサンドル |
第18世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。モスクワ大公の勤務公。
ヴァシーリイ2世の忠実な臣下。
1446年にドミートリイ・シェミャーカがヴァシーリイ2世を破り、これを廃位してウーグリチに幽閉すると、イヴァン・ヴァシーリエヴィチは救出を決意。しかしこの計画はドミートリイ・シェミャーカ側に漏れ、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはベロオーゼロに逃亡した。ドミートリイ・シェミャーカの軍を破りはしたが、ヴァシーリイ2世を救出することは叶わず、イヴァン・ヴァシーリエヴィチと一党の諸公はリトアニアに逃亡した。
反シェミャーカ派諸公はリトアニアでセールプホフ公ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチの下に結集。ウーグリチに侵攻し、ヴァシーリイ2世を解放した。
1449年にも再起したドミートリイ・シェミャーカ軍をコストロマーで破る。
1456年にノーヴゴロド、1458年にヴャートカに遠征。1460年にはプスコーフ市民の要請でプスコーフの代官。
ヤロスラーヴリの代官(1463-68)として、旧来の土地所有制度を破壊し、新たにモスクワ大公を頂点とする封土制度を確立した。ヤロスラーヴリ公アレクサンドル太鼓腹公を筆頭に、ヤロスラーヴリ系の分領公(スモレンスク系)がこの時期に挙ってモスクワ大公の勤務公となったのはイヴァン・ヴァシーリエヴィチの功績である。
1471年、ノーヴゴロド遠征。1472年にはプスコーフが再びイヴァン・ヴァシーリエヴィチに代官となるよう要請するが、イヴァン3世がこれを拒否。
1477年、ノーヴゴロド遠征の中心人物のひとり。イヴァン3世の命令でノーヴゴロド周辺の土地を制圧し、都市を孤立させた。ノーヴゴロドが降伏を申し出ると、イヴァン・ヴァシーリエヴィチが降伏条件の折衝に携わる。降伏後はノーヴゴロドの代官。
ペストにより死去。死後はスーズダリのスパソ=エヴフィーミエヴィィ修道院に埋葬された。
孫の代で断絶。