イヴァン・ミハイロヴィチ・オボレーンスキイ «レプニャー»
Иван Михайлович Оболенский "Репня"
公 князь
生:?
没:1523
父:ミハイール・イヴァーノヴィチ・オボレーンスキイ公 (オボレーンスク公イヴァン・コンスタンティーノヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | ||
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母親不詳 | |||
ヴァシーリイ | -1546 | ||
ピョートル | -1546 |
第18世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。モスクワ大公の勤務公。
1490年、リトアニアと戦い、ヴャージマを占領。1491年には、クリム・ハーンを援けてキプチャク・ハーン軍と戦う。1492年にはスモレンスク、1495年にはフィンランドに遠征。その後も軍司令官として、東(対タタール)へ西(対リトアニア)へと派遣される。
1500年にリトアニアとの戦争が再開されると、主に南方戦線を指揮。1502年にはオールシャを、1508年にはドロゴブージュを占領。その間にも、1505年にはカザン・ハーン軍との戦いに派遣されている。
1509年、プスコーフの代官。長い自治の伝統を誇るプスコーフ市民はイヴァン・ミハイロヴィチに反発し、ヴァシーリイ3世に上訴。結局、プスコーフの自治は廃止された。
1512年、スモレンスク遠征。リトアニア軍との激しい戦闘を繰り返してこれを破るが、結局1513年にいたってもスモレンスクを陥落させることができず、軍の指揮権を剥奪された。