グリゴーリイ・フョードロヴィチ・ドルゴルーキイ
Григорий Федорович Долгорукий
公 князь
生:1656
没:1723.08.15/08.26
父:フョードル・フョードロヴィチ・ドルゴルーキイ公 (フョードル・イヴァーノヴィチ・ドルゴルーキイ公)
母:?
結婚:?
子:?
名 | 生没年 | ||
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母親不詳 | |||
アレクサンドラ | В. Ф. サルティコーフ | ||
アレクセイ | -1734 | ||
セルゲイ | -1739 | ||
イヴァン | 1680-1739 | ||
アレクサンドル |
第24世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。ロシア貴族。
1701年から21年まで、ポーランド駐在大使。反スウェーデン同盟を維持。
1708年、マゼーパの後任のウクライナ・ヘトマンの選出に影響力を行使し、親ロシア派のイヴァン・スコロパーツキイを選出させる。
1709年、ポルターヴァの戦いで活躍。
ポーランドにおけるロシアの影響力は徐々に顕在化していき、これに対してザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世/ポーランド王アウグスト2世は、ロシアの後押しで王になり北方戦争でもピョートル大帝の同盟者ではあったが、徐々にロシアの影響力を排除する方向で改革を開始。これに対して貴族たちが反発。国王派と貴族との対立が深まる中、本来元凶のロシアが仲裁に乗り出す。
1717年、グリゴーリイ・フョードロヴィチ公はロシア軍を引き連れて、«沈黙議会» を主催。ひとりの反対でも法案が葬り去られる «リベルム・ウェト» の制度を阻むため、ロシア軍による威圧で議員の発言を阻み、仲裁案を可決させた。