エカテリーナ・ミハイロヴナ・ドルゴルーカヤ
Екатерина Михайловна Долгорукая (Долгорукова)
公女 княжна
ユーリエフスカヤ公妃 светлейшая княгиня Юрьевская (1880-)
生:1847.11.02/11.14−モスクワ
没:1922.02.15(享年74)−ニース(フランス)
父:ミハイール・ミハイロヴィチ・ドルゴルーキイ公 (ミハイール・ミハイロヴィチ・ドルゴルーキイ公)
母:ヴェーラ・ガヴリーロヴナ・ヴィシュネフスカヤ
結婚:1880−ツァールスコエ・セロー
& 皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチ 1818-81
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
アレクサンドル2世と | |||
1 | ゲオルギイ | 1872-1913 | ザルネカウ伯女アレクサンドラ |
2 | オリガ | 1873-1925 | メーレンベルク伯ゲオルク |
3 | ボリース | 1876 | − |
4 | エカテリーナ | 1878-1959 | アレクサンドル・バリャーティンスキイ公 |
セルゲイ・オボレンスキイ=ネレディンスキイ=メレツキイ公 |
第30世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。ロシア貴族。
エカテリーナ・ドルゴルーカヤ公女とアレクサンドル2世の最初の出会いは1859年。アレクサンドル2世が父ミハイール・ドルゴルーキイ公の客として、ポルターヴァ近郊にあるその所領を訪問した時だった。
1863年ないし70年にミハイール・ドルゴルーキイ公が死去した時には、一家は貧窮状態に陥っており、4人の男子、2人の女子を抱えて未亡人となった母ヴェーラ・ドルゴルーカヤ公妃は生活のすべを持たず、アレクサンドル2世が手を差し伸べて男子を陸軍幼年学校へ、女子をスモーリヌィイ学院へ入学させた。
1865年、すでに病を得て床に伏していた皇后マリーヤ・アレクサンドロヴナの代理として、アレクサンドル2世はスモーリヌィイ学院を訪問。そこでエカテリーナ・ドルゴルーカヤ公女に目をとめる。
以後、アレクサンドルはエカテリーナ・ドルゴルーカヤ公女と密会を重ねるようになる。ふたりの関係が肉体関係にまで進んだのは、1866年の夏のことだった。
ふたりの関係はすぐに皇帝一族の知るところとなり、その反発からエカテリーナ・ドルゴルーカヤ公女は兄とともにナポリに送られる。その後パリへ。
1867年、エカテリーナ・ドルゴルーカヤ公女はパリを訪問したアレクサンドルと再会した。エカテリーナ・ドルゴルーカヤ公女はパリから呼び戻され、家族の反発を無視したアレクサンドル2世との関係を再開(ただし皇后は知らなかったと言われる)。サンクト・ペテルブルグ市内に家を買い与えられた。
第三子ボリースと第四子エカテリーナは、冬宮で生まれている。やがてエカテリーナ・ドルゴルーカヤ公女が暗殺の標的となることを怖れたアレクサンドル2世により、1880年までに彼女と子供たちは冬宮に住むようになった(それがさらに皇帝一族の反発を煽った)。
ロマーノフ一族や宮廷は、中にはエカテリーナ・シンパもいたが、概してエカテリーナ・ドルゴルーカヤ公女には敵対的だった。
アレクサンドル2世の子供たちでは、アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公とマリーヤ・アレクサンドロヴナ大公女が中立的、末子パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公は事実を知らされず、残るアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公(のちの皇帝3世)、ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公、セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公は父親を強く非難していた。特に皇太子アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公は批判の急先鋒だった。
アレクサンドル2世の «自由主義政策» に批判的な連中は、すべての責めをエカテリーナ・ドルゴルーカヤ公女に帰していた(言うまでもなく、彼女と出会う前からアレクサンドル2世は改革を推進していた)。
1880年春、冬宮で爆発事件が起こった時には、アレクサンドル2世はエカテリーナ・ドルゴルーカヤ公女のもとに駆けつけたが、たまたま居合わせた皇后の兄アレクサンダー(バッテンベルク家の祖)は、アレクサンドルが皇后を完全に忘却していたと言って非難している。
ただし、皇后はこの問題に関して特段批判めいた言動をしていなかった。
それもあってか、死の床で皇后は、エカテリーナ・ドルゴルーカヤ公女の子供たちを連れてくるよう頼み、アレクサンドルが涙で見守る前で、連れてきたゲオルギーとオリガにキスをして祝福した、というエピソードがまことしやかに伝えられている。
皇后マリーヤ・アレクサンドロヴナが死んで1ヶ月半で、アレクサンドル2世はエカテリーナ・ドルゴルーカヤ公女と秘密結婚(ロマーノフ一族にも知らせなかった)。結婚を急いだのは、アレクサンドルが自身の暗殺を怖れたためだと言われる。
結婚は貴賎結婚であったため、エカテリーナ・ドルゴルーカヤ公女は皇后を名乗ることができなかった。このためアレクサンドル2世は、1880年、彼女にユーリエフスカヤ公妃の称号を与えた(ただし1874年にすでに与えていたという史料もある)。
ユーリエフスキイという姓は、ドルゴルーキイ家の祖でありその姓の由来でもあるユーリイ・ドルゴルーキイにちなんだものだとされる(実際にはユーリイ・ドルゴルーキイはドルゴルーキイ家の祖ではないし、ドルゴルーキイ家という姓もユーリイ・ドルゴルーキイに由来するものではない)。
また子供たち(両親の結婚前に生まれていたので法的には私生児)を嫡出子とした。
アレクサンドル2世の葬儀では、エカテリーナ・ユーリエフスカヤ公妃と子供たちには場所が与えられなかった。
アレクサンドル2世の暗殺後、あとを継いだアレクサンドル3世との関係ももともと悪く(ただし冬宮内のユーリエフスキイ家の部屋は残されたが)、宮廷からも冷ややかに迎えられていたこともあって、エカテリーナ・ユーリエフスカヤ公妃は子供たちを連れて外国へ。最終的にニースに落ち着いた。
さすがのアレクサンドル3世もエカテリーナ・ユーリエフスカヤ公妃への年金の支払いまでは拒絶せず(年金は10万ルーブリ、これはいまの金に換算して100万ドルという説も)、エカテリーナ・ユーリエフスカヤ公妃と子供たちは何不自由ない豪奢な暮らしを送った。
エカテリーナ・ユーリエフスカヤ公妃の死後、アレクサンドル2世と彼女の間で交わされた書簡が売りに出されている。