ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

ロマーン・スヴャトスラーヴィチ «クラースヌィイ»

Роман Святославич "Красный"

トムタラカーニ公 князь Тмутараканский (1077-79)

生:?
没:1079.08.01

父:キエフ大公スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチ (キエフ大公ヤロスラーフ賢公
母:?

結婚:?

子:?

第7世代。スヴャトスラーヴィチ。

 1069年にグレーブ・スヴャトスラーヴィチノーヴゴロド公になると、ロマーン・スヴャトスラーヴィチが後任としてトムタラカーニ公に任命された、とする史料がある。これが事実であるならば、ロマーン・スヴャトスラーヴィチは5兄弟の次男であったと考えられる。
 生年もはっきりしないが、おおよそ1050年頃と見てよかろう。

 1076年、父が死去。
 父はキエフ大公になるに際して、チェルニーゴフを弟フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチに譲っており、しかも後を襲ってキエフ大公となったイジャスラーフフセーヴォロドのヤロスラーヴィチ兄弟は、ふたりの覇権の下に甥たちを疎外する体制をつくりあげた。このためスヴャトスラーヴィチ兄弟に残された領土は、長兄グレーブ・スヴャトスラーヴィチの支配するノーヴゴロドのほかには飛び地トムタラカーニだけであった。
 ロマーン・スヴャトスラーヴィチがトムタラカーニ公となった時期ははっきりしないが、飛び地トムタラカーニ統治のために父が早くに兄グレーブ・スヴャトスラーヴィチを派遣していた事実からして、おそらくグレーブ・スヴャトスラーヴィチノーヴゴロド公となった1069年と見るのがもっとも妥当だろう。そうでないとしても、父の死んだ1076年にはロマーン・スヴャトスラーヴィチがトムタラカーニ公となっていたはずである。
 ちなみにこの時期、弟たちのうちダヴィドはムーロムに、オレーグはチェルニーゴフにいたらしい。末弟ヤロスラーフは不明で、あるいはドイツにでもいたのか?

 1077年、伯父たちの支配体制に反抗した従兄弟ボリース・ヴャチェスラーヴィチがチェルニーゴフを占領するが、フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチに敗北してトムタラカーニに逃亡してきた。
 1078年、グレーブ・スヴャトスラーヴィチが死去。イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチはノーヴゴロドを取り上げ、弟オレーグ・スヴャトスラーヴィチがトムタラカーニに逃げ込んできた。
 ロマーン・スヴャトスラーヴィチはふたりの逃亡者を支援し、オレーグ・スヴャトスラーヴィチボリース・ヴャチェスラーヴィチはポーロヴェツ人を雇い入れてチェルニーゴフに侵攻。フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチを破ってこれを占領する。
 しかし続く戦いでイジャスラーフ & フセーヴォロドのヤロスラーヴィチ兄弟連合軍に敗北。イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチは戦死させたものの、ボリース・ヴャチェスラーヴィチも戦死し、オレーグ・スヴャトスラーヴィチは再びトムタラカーニに逃げ戻ってきた。

 1079年、ロマーン・スヴャトスラーヴィチはポーロヴェツ人やハザール人を招集して、オレーグ・スヴャトスラーヴィチとともにペレヤスラーヴリに侵攻。しかしフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチがポーロヴェツ人を買収し、講和を結ぶ。これに怒ったロマーンとオレーグはトムタラカーニに何も得るところなく帰還することを肯んぜず、ポーロヴェツ人と対立。ポーロヴェツ人が叛乱して、ロマーン・スヴャトスラーヴィチは殺された。

▲ページのトップにもどる▲

最終更新日 07 03 2013

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

inserted by FC2 system