ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

ユーリイ・アンドレーエヴィチ

Юрие Андреевич

スーズダリ公 князь Суздальский (1264-79)

生:?
没:1279.03.08

父:スーズダリ公アンドレイ・ヤロスラーヴィチヴラディーミル大公ヤロスラーフ・フセヴォローディチ
母:ドブロスラーヴァ (ガリツィア王ダニイール・ロマーノヴィチ

結婚:?

子:?

第12世代。モノマーシチ(スーズダリ系)。

 アンドレイ・ヤロスラーヴィチの長男と思われる。一般的にスーズダリ公位は、ユーリイ、ミハイールヴァシーリイの順で継がれたとされている。
 生年は不明だが、両親の結婚が1250年とされるので、父が死んだ時点ではまだせいぜいローティーンだったはず。
 父の死でその遺領を継いだはずだが、なぜか父の遺領のうちゴロデーツは従兄弟アンドレイ・アレクサンドロヴィチの領土になっていたようだ(史料上ゴロデーツがアンドレイ・アレクサンドロヴィチの領土として言及されるのは1282年で、それ以前は誰の領土か厳密には不明)。

 1267年、ノーヴゴロド民会と対立してノーヴゴロドを去った叔父のヴラディーミル大公トヴェーリ公ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチにより、ノーヴゴロドの代官に任命される。
 これ以後、ユーリイ・アンドレーエヴィチはその生涯のほとんどをノーヴゴロドで過ごした。
 1267年、リヴォニア騎士団と戦う。

 1268年、ノーヴゴロドがエストランドのデンマーク勢への遠征を計画。これは全ルーシを挙げた遠征となり、プスコーフ公ダウマンタスペレヤスラーヴリ公ドミートリイ・アレクサンドロヴィチスヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチ、ミハイール・ヤロスラーヴィチ(?)、コンスタンティーン・アンドレーエヴィチ(?)、そして当然ユーリイ・アンドレーエヴィチもこれに従軍。デンマーク・リヴォニア連合軍に大勝利を収めるが、ユーリイ・アンドレーエヴィチ自身は先に逃亡していたらしい。

 1269年、リヴォニア騎士団がプスコーフに侵攻。ユーリイ・アンドレーエヴィチが救援に向かう。

 1270年、リヴォニア騎士団と講和を結んだヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチに対する反発がノーヴゴロドで広がると、ユーリイ・アンドレーエヴィチはヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチを支持し、ノーヴゴロド市民と対立。ノーヴゴロドを飛び出し、トルジョークを制圧した。

 ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチは1271/72年に死去。ノーヴゴロド公位を巡る争いが勃発したが、ユーリイ・アンドレーエヴィチについてはよくわからない。

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最終更新日 07 03 2013

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