ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ・シュイスキイ «ネモーイ»
Василий Васильевич Шуйский, "Немой"
公 князь
ボヤーリン боярин (1512-)
生:?
没:1538.10
父:ヴァシーリイ・フョードロヴィチ・シュイスキイ公 (フョードル・ユーリエヴィチ・シュイスキイ公)
母:?
結婚:
& アナスタシーヤ・ペトローヴナ -1547 (カザン・ハーン王女)
子:
名 | 生没年 | ||
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母親不詳 | |||
1 | マルファ | 1539- | イヴァン・ベリスキイ公 |
第19世代。モノマーシチ(スーズダリ系)。モスクワ大公の勤務公。
ノーヴゴロド代官(1500-06、10-14)。1501年、ノーヴゴロド軍を率いて、ダニイール・シチェニャー公と共同でリヴォニアでリトアニア軍と戦うが、イズボルスク近郊で敗北。しかし1502年に雪辱してイズボルスクを解放すると、その後も毎年のようにリトアニアと戦った。
スモレンスク遠征にも1512年、13年、14年と従軍し、獲得したスモレンスクの初代代官となる(1514-17)。スモレンスク内の親リトアニア派ボヤーリンを処刑した。
その後も対リトアニア戦線の最前線で軍を指揮。ノーヴゴロド代官(1517-19)。1519年にもポーロツク遠征を指揮した。
1521年、南方にまわされ、クリム・ハーン軍との戦いに従事。各地で総督、軍司令官として活躍する。
1533年、まだ幼いイヴァンを残して逝こうとするヴァシーリイ3世から、幼君の摂政となる妃エレーナ・グリンスカヤの後見人となることを依頼される。その摂政時代にも、各地で軍を率いて活躍。もっとも、モスクワにおける政治の実権はエレーナ・グリンスカヤとその寵臣イヴァン・オフチーナ=テレプニョーフ=オボレーンスキイ公が握った。
1538年、エレーナ・グリンスカヤが死ぬと、実権を掌握。かれの専横をとどめる者はおらず、イヴァン・ベリスキイ公が反対派の筆頭として総主教ダニイールとも結んだが、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチはイヴァン・ベリスキイ公を投獄。
しかしヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチの «天下» も数ヶ月しか続かなかった。
かれの死後、シュイスキイ家とベリスキイ家の間で、血で血を洗う権力闘争が繰り広げられることになる。
添え名の «ネモーイ» は「唖の、口の利けない」という意味だが、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチは唖ではなかったらしい。寡黙さゆえに «ネモーイ» と呼ばれたそうだ。