ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ «グレビョーンカ»

Василий Васильевич "Гребенка"

公 князь

生:?
没:?

父:シューヤ公ヴァシーリイ・セミョーノヴィチニジェゴロド=スーズダリ大公セミョーン・ドミートリエヴィチ
母:?

結婚:?

子:?

第17世代。モノマーシチ(スーズダリ系)。

 アレクサンドル・グラザートィイイヴァン・ゴルバートィイの兄弟だが、生年も長幼の順も不明。

 1446年、モスクワ大公ヴァシーリイ2世が従兄弟ドミートリイ・シェミャーカモスクワ大公位を奪われる。しかしヴァシーリイ2世は巻き返し、ドミートリイ・シェミャーカは敗北した。
 国力からしてモスクワの下風に立たされ、形式上はモスクワ大公を公として認めていたノーヴゴロドは、対抗上ドミートリイ・シェミャーカを支援。モスクワ大公に «ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» であるニジェゴロド=スーズダリを奪われていたヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチも、ヴァシーリイ2世に対抗してノーヴゴロドに接近した。ヴァシーリイ2世を支持して忠実に仕えた兄(?)イヴァン・ゴルバートィイとは逆の立場を選んだわけである。

 ノーヴゴロドにとっての敵は、モスクワだけではない。1447年、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチはノーヴゴロド軍を率いてリヴォニア騎士団と戦い、これを破っている。
 特にリヴォニア騎士団、リトアニアとの最前線に立たされていたプスコーフは、1448年にヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチを公として招いた。しかしプスコーフもすでにモスクワに従属しており、50年前からその公は事実上モスクワ大公の代官であった。このため、ヴァシーリイ2世の与り知らぬこの提案は、結局反故となった。
 1456年にもノーヴゴロド軍を率いてモスクワ軍と戦っている(ただし200人のモスクワ軍に5 000人のノーヴゴロド軍は敗北した)。この敗北の結果、ノーヴゴロドはさらに権利を喪失。モスクワ大公の権限が拡大した。
 とはいえ、形式上のノーヴゴロド公ヴァシーリイ2世(とその子イヴァン3世)だったが、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチは20年以上にわたって事実上のノーヴゴロド公であった。

 しかしモスクワに対抗する上で、自前の分領を持たず、実家(スーズダリ公家)もモスクワに屈服していたヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチよりも、リトアニア、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナを支配するリトアニア大公の方がノーヴゴロドにとってはより望ましい選択肢である。1470年、ノーヴゴロドはスルーツク公ミハイール・オレリコヴィチを招いた。ミハイール・オレリコヴィチはゲディミナス家の一族、時のリトアニア大公カジミエラス/ポーランド王カジミェシュ4世にとっては従兄弟の子に当たる。
 ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチはノーヴゴロドの属州に赴き、モスクワとの対決に備えた。
 これに対してイヴァン3世は、カトリックのリトアニア人を招いたノーヴゴロドを «正教に対する裏切り» として弾劾し(ミハイール・オレリコヴィチ自身は正教徒)、ルーシ諸公を招集。1471年、ノーヴゴロド軍はモスクワ軍に敗北を喫した。
 他方ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチも、ヴェリーキー・ウーステュグに侵攻するものの、3倍を兵力を有しながらモスクワ軍に敗北し、ノーヴゴロドに逃亡。ミハイール・オレリコヴィチもノーヴゴロドを棄ててキエフに逃げ帰った。

 軍事的にはモスクワに屈服したノーヴゴロドだったが、その後も反対派の市民を中心にイヴァン3世への抵抗を続けた。その中心にいたのが大貴族ポレツキイ家の当主マルファ・ボレツカヤだった。ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチはその下で、ノーヴゴロドの要塞化を指揮。
 1477年、最終的にノーヴゴロドを併合しようと決意したイヴァン3世は、ノーヴゴロドを攻囲。ノーヴゴロド市民はイヴァン3世の権利を拡大することで講和を勝ち取ろうとするが、イヴァン3世はこれを肯んぜず。最終的に1477年末にノーヴゴロドはイヴァン3世の条件を受け入れ、1478年、ノーヴゴロドはモスクワ大公国に併合された。

 ノーヴゴロドの消滅で、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチはイヴァン3世に臣従。ノーヴゴロド代官の地位もプスコーフ公位も拒絶し、代わりにニージュニイ・ノーヴゴロド代官となった(1478-)。

 添え名の «グレビョーンカ» は「櫛」という意味。

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最終更新日 07 03 2013

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