イヴァン・ミハイロヴィチ・シュイスキイ «プレテーニ»
Иван Михайлович Шуйский, "Плетень"
公 князь
ボヤーリン боярин (1538-)
生:?
没:1559
父:ミハイール・ヴァシーリエヴィチ・シュイスキイ公 (ヴァシーリイ・ユーリエヴィチ・シュイスキイ公)
母:?
結婚:?
子:なし
第19世代。モノマーシチ(スーズダリ系)。モスクワ大公の勤務公。
1531年、コロームナ総督。1532年にはウグラの総督。
1533年から38年、幼帝イヴァン雷帝に代わり、母后エレーナ・グリンスカヤが摂政として政治の実権を握った。親族のヴァシーリイ・ネモーイ公がエレーナ・グリンスカヤの後見人であった関係もあってか、イヴァン・ミハイロヴィチもこの時期宮廷内に大きな影響力を持った。もっとも、ヴァシーリイ・ネモーイ公やイヴァン・シュイスキイ公の後を継いで宮中の一方の主役として活躍したのは兄アンドレイ・ミハイロヴィチであり、イヴァン・ミハイロヴィチは権力闘争にはほとんどかかわらなかった。
1538年、ウグラ総督。以後南方防衛の指揮を執る。
ノーヴゴロドの代官を長く務めた(1538, 41, 43-46, 47-48)。兄が処刑された1543年にイヴァン・ミハイロヴィチがノーヴゴロド代官に任命されているというのも、かれが権力闘争と無関係であった事実を物語っている(これは降格でも左遷でもない)。1544年にも46年にも、軍を率いてカザン・ハーン国遠征に従事している。
イヴァン雷帝の親政開始(1547)後は、その傍らで戦に従軍。また各地に派遣され、依然として軍の指揮を執り続けた。またラズリャードヌィイ・プリカーズ(役人人事・軍事事務・南方都市管理を担当する省庁)の長官も務めている。
添え名の «プレテーニ» は「編み垣」のことだが、ここではどういう意味合いで使われていたのだろうか。