ロシア学事始ロシアの君主リューリク家

スーズダリ系

ヴラディーミル系モノマーシチの一系統。アレクサンドル・ネフスキイ(11)の弟アンドレイ(11)に始まる。

 始祖アンドレイ・ヤロスラーヴィチ(11)が領有したのは、ヴラディーミルにほど近いスーズダリと、はるか東方のゴロデーツ。かれはヴラディーミル大公だったが、その争奪戦に敗北したため、その子らはヴラディーミル大公になっていない。それどころか、ゴロデーツすら失われたらしく、アンドレーエヴィチ兄弟(12)の領土はどうやらスーズダリだけであったようだ。つまり、ヴラディーミル系でも最も分領の狭い一族であったと思われる。
 一族が再び陽の目を見たのは、アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ(12)によってである。かれがヴラディーミル大公となり(異説もある)、ゴロデーツを再び獲得。その弟コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチ(12)はヴラディーミル大公にはなれなかったし、ゴロデーツを一旦失ったとする文献もあるが、いずれにせよかれが死んだ時点で、スーズダリ系一族はスーズダリに加えてゴロデーツを領有し、ヴラディーミル大公位争奪にも加わる一大勢力となっていた。
 一旦は歴史の表舞台から姿を消したにもかかわらず復活することができたのは、ひとつには、同じく歴史の表舞台から姿を消したロストーフ系と違い、分領が細分化されなかったことが大きいだろう。偶然ではあるが、アンドレーエヴィチ兄弟(12)でもヴァシーリエヴィチ兄弟(13)でも、いずれも最後には全領土がひとりによって統一されている。また、ヴァシーリエヴィチ兄弟が再獲得したゴロデーツは、北東ルーシの東端にあり、ウラル系諸民族やヴォルガ・ブルガールとの最前線に位置していた。特にコンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチ(12)はゴロデーツ近郊のニージュニイ・ノーヴゴロドに主都を移して、東方領の開発を重視している。この広大な東方領を得たことが、スーズダリ系一族の活躍の基盤になったと言えるだろう。
 スーズダリ系一族の «全盛期» は、コンスタンティーノヴィチ兄弟(14)の時代であろう。特にドミートリイ(14)は、ドミートリイ・ドンスコーイヴラディーミル大公位を争い、またその支援も得てヴォルガ・ブルガールにも宗主権を及ぼした。しかし兄弟の時代は同時にモスクワ大公への従属が確定した時代でもある。
 1393年、モスクワ大公ヴァシーリイ1世がニージュニイ・ノーヴゴロドの支配を認める認可状をキプチャク・ハーンから獲得している。この場合のニージュニイ・ノーヴゴロドは、おそらくゴロデーツも含むものであったろう。これによりスーズダリ系一族は、その勢力基盤であった東方領をモスクワ大公に奪われた。のみならず、ヴァシーリイ1世はスーズダリをも征服し、スーズダリ系一族にはスーズダリ近郊のシューヤだけが残された。
 以後スーズダリ系はシューヤ公(シュイスキイ公家)として知られる。かれらはモスクワ大公の勤務公として、特に16世紀には大活躍をし、ついにはヴァシーリイ・イヴァーノヴィチがツァーリにまでなるが、その前後にあらゆる系統が断絶。その弟イヴァン・プーゴフカの死とともに、ロシアにおけるスーズダリ系(シュイスキイ公家)は断絶した。一分家がポーランドに亡命していて、ポーランド貴族として存続している。

 家系図はこちらの画像

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最終更新日 07 03 2013

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