ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

アンドレイ・ヤロスラーヴィチ

Андрей Ярославич

ヴラディーミル大公 великий князь Владимирский (1248-52)
スーズダリ公 князь Суздальский (1256-64)

生:?
没:1263/64

父:ヴラディーミル大公ヤロスラーフ・フセヴォローディチヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公
母:ロスティスラーヴァ (トローペツ公ムスティスラーフ幸運公

結婚:1250
  & ドブロスラーヴァ/アグラーヤ/ウスティーニヤ公女 (ガリツィア王ダニイール・ロマーノヴィチ

子:

生没年
母親不詳
1ユーリイ-1279スーズダリ
2ミハイール-1305スーズダリ
3ヴァシーリー-1309スーズダリ

第11世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。ヤロスラーフ・フセヴォローディチの三男。
 スーズダリ系モノマーシチの始祖。

 正確な生年は不明ながら、長兄フョードル、次兄アレクサンドルとさほど年の差はないと想像され、よって1221年頃に生まれたものと考えられている。

 1241年、リヴォニア騎士団の脅威にさらされたノーヴゴロド市民が父にノーヴゴロド公を派遣するよう要請してきた時、父が最初に派遣したのがアンドレイ・ヤロスラーヴィチだった。しかしノーヴゴロド市民は、前年ネヴァ河の戦いでスウェーデン軍を破った兄アレクサンドル・ネフスキイを派遣するよう改めて要請。アンドレイ・ヤロスラーヴィチに代わってアレクサンドル・ネフスキイノーヴゴロド公となった。
 1242年、兄に従い、チューディ湖の戦い(氷上の戦い)に従軍。

 1246年、父ヤロスラーフが死ぬと、叔父スヴャトスラーフ・フセヴォローディチヴラディーミル大公位を継承。
 アンドレイ・ヤロスラーヴィチは兄アレクサンドル・ネフスキイとともにサライへ。さらにそこからカラコルムに赴き、大ハーン・グユクと会見する。カラコルムでアンドレイとアレクサンドルは遺領相続で争う。サライにもアンドレイ・ヤロスラーヴィチが先着していたらしく、あるいはそもそも叔父に代わって、兄を差し置いてヴラディーミル大公位を獲得しようとの野心を燃やしていたのかもしれない。
 結局は大ハーン・グユクにヴラディーミル大公位を認めてもらった。他方アレクサンドル・ネフスキイにはキエフ(南ルーシ)とノーヴゴロドの支配権が認められている。グユクがどの程度当時のルーシの情勢を知っていたのかよくわからないが、あるいは単純に分割統治の原則に従っただけかもしれない。
 1249年に帰国。アンドレイ・ヤロスラーヴィチはスヴャトスラーフ・フセヴォローディチからヴラディーミルを奪い、北東ルーシに君臨した。スヴャトスラーフ・フセヴォローディチは大公位を取り戻そうとサライに赴くが、失敗し、失意のうちに死んだ。なお、アレクサンドル・ネフスキイもペレヤスラーヴリ=ザレスキイを領有しており、アンドレイ・ヤロスラーヴィチが北東ルーシをまるまる支配したわけではない(弟たちにも分領が与えられていた)。

 キエフ・ルーシでは慣習法として、年長権に基づく公位継承がおこなわれてきた。父が死ねば叔父が継ぐのが当然であり、父の代が死に絶えた段階で子の代に継承権が移る。つまり、キエフ・ルーシの慣習法からすればヤロスラーフ・フセヴォローディチの跡をスヴャトスラーフ・フセヴォローディチが継いだのは正当なものであった。スヴャトスラーフ・フセヴォローディチの跡を継ぐべき第一は、アレクサンドル・ネフスキイでも、ましてやアンドレイ・ヤロスラーヴィチでもなく、従兄弟のヴラディーミル・コンスタンティーノヴィチであった(ただしかれは1249年に死去)。
 アンドレイ・ヤロスラーヴィチのヴラディーミル大公就任は、その意味で二重にも三重にもキエフ・ルーシの慣習法に基づく継承順位を侵している。これもひとえにモンゴルという慣習法を超える絶対的な存在があればこそである。
 当然、アンドレイ・ヤロスラーヴィチはモンゴルにおんぶにだっこ、絶対的な忠誠を誓っていてしかるべきだったのだが。
 1250年、ウスティーニヤ・ダニイーロヴナと結婚。岳父ダニイール・ロマーノヴィチは西欧の支援を得てモンゴルに抵抗しようとしており、あるいはその影響か、それとももともとアンドレイ・ヤロスラーヴィチ自身にそのような意図があったのか、モンゴルに対する敵対的態度を強めていった。
 バトゥ(実権を委ねられていたその長男サルタク)との関係が悪化。同時にアレクサンドル・ネフスキイも、モンゴルにアンドレイ・ヤロスラーヴィチに関する苦情を言いつのっていた。しかもアンドレイ・ヤロスラーヴィチのヴラディーミル大公位を認めたグユクは1248年に死去。後継の大ハーンにはモンケが選ばれ、しかもモンケもバトゥもグユクとは犬猿の仲だった。
 1252年、アンドレイ・ヤロスラーヴィチは、兄がサライに赴いた間隙を衝いて、弟ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチ、ノーヴゴロドと共同し、兄の領土ペレヤスラーヴリ=ザレスキイに侵攻した。しかしこれにモンゴル軍が反撃。アンドレイ・ヤロスラーヴィチはペレヤスラーヴリ近郊で敗北し、ノーヴゴロドに逃亡した。しかし同盟者であったはずのノーヴゴロドにアンドレイ・ヤロスラーヴィチは受け入れてもらえず、さらにそこからスウェーデンへの逃亡を余儀なくされた。
 スウェーデン王エーリク11世・エーリクソンは、かつてネヴァ河畔の戦いでかれらを破ったアレクサンドル・ネフスキイの敵ということで、アンドレイ・ヤロスラーヴィチを暖かく迎え入れた。

 1256年、帰国。ヴラディーミル大公となっていたアレクサンドル・ネフスキイと和解し、スーズダリとゴロデーツを与えられた。さらにアレクサンドル・ネフスキイの仲介で、サルタクとも和解。1257年には両者揃ってサライに赴いている。

 1263年、アレクサンドル・ネフスキイが死去。当然アンドレイ・ヤロスラーヴィチがヴラディーミル大公位を継ぐはずだったが、これに弟のヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチが異議を唱える。アンドレイ・ヤロスラーヴィチには、かつてモンゴルの宗主権に反抗したという «前科» があった(その点ではヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチも同罪だったが)。
 結局、ベルケ・ハーンの裁定はヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチに下り、アンドレイ・ヤロスラーヴィチは、かつて自身が追った叔父スヴャトスラーフ・フセヴォローディチと同じく、失意のうちに死んだ。

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最終更新日 07 03 2013

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