アンドレイ・ミハイロヴィチ・シュイスキイ
Андрей Михайлович Шуйский
公 князь
生:?
没:1543
父:ミハイール・ヴァシーリエヴィチ・シュイスキイ公 (ヴァシーリイ・ユーリエヴィチ・シュイスキイ公)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | ||
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母親不詳 | |||
1 | イヴァン | 1533?-73 |
第19世代。モノマーシチ(スーズダリ系)。モスクワ大公の勤務公。
1520年代から軍の司令官として活動。
宮廷内での立身出世を目指すが、何度か挫折。エレーナ・グリンスカヤに投獄されたこともある。1538年の彼女の死でようやく釈放された。
エレーナ・グリンスカヤ死後に実権を掌握したヴァシーリイ・シュイスキイ=ネモーイ公も、その跡を継いだイヴァン・ヴァシーリエヴィチ・シュイスキイ公も、ともにアンドレイ・ミハイロヴィチ公の又従兄弟で、かつてはその下で軍務についていた。このため、かれらに釈放されたアンドレイ・ミハイロヴィチ公は、ノーヴゴロド代官(1539-40)やプスコーフ代官(1540)を歴任し、モスクワに呼び戻されるとシュイスキイ一族の重鎮として影響力を拡大。
1542年、イヴァン・ヴァシーリエヴィチ・シュイスキイ公の死後、権力を握る。しかし早くもその年のうちにエレーナ・グリンスカヤの弟ミハイール・グリンスキイが台頭し、権力闘争が激化。
翌1543年、アンドレイ・ミハイロヴィチ公は幼帝イヴァン4世雷帝と府主教マカーリイの眼前で、ボヤーリンだったフョードル・ヴォロンツォーフを殺した。いかに権力の絶頂にあったとはいえさすがにこれはやりすぎで(あるいは権力闘争の渦中で焦っていたのか)、3ヶ月後、イヴァン雷帝の命で処刑された。かれの死で、シュイスキイ一族は権勢を失った。